167話 外伝:混沌のルーツ (2) - 真実の泥
唯一の希望と裏切りの現実
遊郭での日々の中で、千代に予測不能な光を見せた唯一の男、秋人。彼は、千代の部屋に来ては、「誰にも縛られない、不確定な場所」へ行こうという、幻想的でロマンティックな夢を語った。彼の愛は、金銭で買えない奇跡であり、千代の最後の希望だった。
千代は、彼に自分の全てを賭け、共にこの絶望から逃れようと決意した。遊郭から逃げ出すことは、厳しい仕置きや、外の世界での野盗にさらわれるといった、恐ろしいリスクを伴う。しかし、千代はその全てを受け入れる覚悟があった。彼女は、憎しみを、この過酷な運命を生き抜くための原動力にする決意をしたのだ。
究極の絶望:泥にまみれた愛
ある晩、千代は秋人に全てを打ち明け、逃亡計画を語った。秋人は、穏やかに微笑み、別れを告げて立ち去った。
だが、千代は彼の裏切りを、翌朝ではなく、その夜のうちに知ることになった。
千代は、秋人が別棟の裏口から出ていくのを目撃した。彼はそのまま遊郭の別の部屋へと向かった。その部屋にいるのは、千代の同僚であり、まだ幼げな顔をした遊女、**小袖**だった。
千代は、音もなくその部屋の障子の陰に忍び寄り、二人の会話を聞いた。それは、千代が求めた幻想的な愛とは、かけ離れた、生々しく、ドロドロとした現実だった。
「秋人さん、本当に千代さんと逃げるんですか?」小袖が不安げに尋ねた。
「逃げる?まさか」秋人の声は冷たかった。「千代は、夢を見ているから、ああいう非合理な奇跡を信じる。だが、俺が本当に欲しいのは、確実な明日だ」
「千代さんの愛は、そんなにつまらないんですか?」
「つまらないんじゃない。非現実的なんだ。彼女の愛は、美しすぎる幻想だ。だが、お前との関係は違う。お前との暮らしは、もっと泥臭いだろう。現実の苦しみを分かち合い、確実な金のために働く。その方が、生き残るために、合理的なんだよ」
小袖がすすり泣く声が聞こえた。
「そうよ、秋人さん。金がなきゃ、私たちは生きていけない。千代さんみたいに、美しい夢ばかり見てても、腹は満たされない」
憎悪への転化
千代の心は、凍りついた氷のように砕け散った。彼女が信じた唯一の予測不能な奇跡は、結局、生存という名の最も論理的で卑俗な選択によって、裏切られたのだ。
彼女が求めたのは、この汚れた肉体を乗り越える純粋な感情。だが、秋人が選んだのは、汚れた肉体と金銭にまみれた、最も予測可能な現実だった。
千代の絶望は、頂点に達した。彼女の愛は、この世界の冷たい合理性によって、完全に否定された。
「愛は…論理的交換。そして、生存競争の道具やと…?」




