65 居場所(3)
世界樹までの道のりはそれほど長くなかったはずなのに、そこに着く頃には息が上がっていた。
(…もしかして、俺も、体力落ちてる…?)
4日間徹夜、しかもほとんど出歩いていない。
自分の状況を改めて俯瞰し、地味に凹む。
これは帰ったら鍛錬が必要かもしれない。
しかしまずは──
「──」
茂みの向こうにリョウの後姿を認め、アベルはわざと足音を立てて近寄る。
リョウは振り返らない。
その背中が思っていたよりもずっと小さく見えて、アベルは思わず数歩手前で立ち止まった。
──彼女は、こんなに小さかっただろうか。
(…いや…)
姿形は変わっていない。身長も、すらりとした体型も、髪の長さも。
けれど確かに、何かが違う。
「…リョウ」
そっと声を掛けると、リョウはぴくりと反応した。
それでも振り返らない彼女の隣に、アベルは静かに並ぶ。
リョウの視線の先にあったのは、世界樹の切り株。
──いや、切り株と言って良いのかも分からない。
森の中に唐突に現れる、拓けた場所。広さは公都にある貴族の屋敷を軽く上回る。
その大部分が、数日前までは世界樹の幹だった。
その証拠に、地面から所々、朽木のようなものが突き出している。
触れれば崩れそうなそれは、木が切り倒されてから何年も経った後を思わせる質感だ。
リョウが世界樹を斬った直後から、その変化は始まっていた。そしてたった数日で、世界樹の切り株は朽ち果て、地に還ろうとしている。
広場に降り注ぐ陽光は暖かい。
風は優しく、アベルとリョウの頬を撫でて行く。
数日前まで瘴気が満ちていたとは思えない、穏やかな空気。
──それはあまりにも、無情な光景だった。
「……」
その光景に目を奪われていると、リョウが小さく息を吸い込んだ。
「──夢だったらいいのに、って、思ってた」
小さな呟きが、足元に落ちる。
「…本当は、皇帝が呪術師だったのも、凍牙やアオイが操られてたのも、…私が世界樹を斬ったのも、全部、夢で。──だから、全部、無かった事になってるんじゃないかって…」
少しだけ幼い口調で、途切れ途切れに自分の心を吐露するリョウの目は、ただ世界樹があった場所を見据えている。
何も言えず、アベルは言葉の続きを待った。
リョウが再び息を吸い込む。
「──だけど、ここに来たら、全部現実なんだって…分かっちゃって。…そしたら、さ」
震える手を自身の胸に置き、続ける。
「ここに…確かにあったはずの世界樹との繋がりが、もう、無くなってるって、気付いちゃって」
リョウは首を大きく横に振り、無理矢理視線を上げた。
「──…これからどうしたら良いんだろう、なんて…思ったら、動けなくなった」
自嘲する顔の中、琥珀色の目が今にも崩れ落ちそうに揺れている。
リョウは今までずっと、凪の一族の『月晶華』として生きて来た。
公国で特殊部隊員として過ごしている間も、その本質はあくまでも凪の一族。それだけは絶対に揺るがなかったのだろう。
だからこそ、『世界樹を終わらせる』という使命を完遂し。
だからこそ、今ここでこうして立ち尽くしている。
──その姿は、今にも消えてしまいそうで。
「…リョウ」
小さく名を呼び、アベルはリョウを抱き寄せた。
リョウは抵抗するでもなくアベルの腕の中に収まり──目を見開いているところを見ると、抵抗しなかったのではなく、抵抗できるほど調子が戻っていないのだろうが。
傷心につけ入るなんてダメだろう、と叫ぶ理性から思い切り目を逸らして、アベルは口を開いた。
「──それなら、俺の傍に居て」
「…………え?」
(あ)
これからどうするかは、ゆっくり考えれば良い──そう言うつもりだったのに、口から零れたのは本心からの願いだった。
一瞬頭が真っ白になるが、アベルはすぐに思考を切り替える。
想いを告げる決意でここに来たのだ。
それが少し早くなっただけのこと。
──それでも、それを言葉にするには相当な覚悟が必要だった。
「──好きだよ、リョウ」
「…!」
腕の中で、リョウの肩がびくっと跳ねた。
声が震えないように、裏返らないように──そんな考えは途中で消えた。
格好つけている余裕などない。
…自分の本心を口にするのが、こんなにも怖いなんて。
けれど──届いて欲しい。その一心で、アベルは言葉を紡ぐ。
「多分、10年前のあの時からずっと、俺は君に惹かれてた」
それを恋心と自覚したのはつい最近だ。格好悪いにも程がある。
「再会して、話をして、君の傍に居て──君を支えられてたかどうかは微妙なところだけど」
思わず苦笑が混ざった。
リョウが公国に来てからは、目まぐるしく変わる状況についていくので精一杯だった。
──その中で自分を見失わないでいられたのは、視線の先に彼女が居たから。
彼女に恥じない自分でありたいと、心の奥底で思っていたから。
「…これから先も、俺の傍に居て欲しい。その…君が良ければ、だけど」
卑怯な言い方だ。頭の片隅で思う。
宝生が教えてくれた『月絆の紋』の効果を考えれば、リョウがアベルのことを憎からず思っているのは間違いない。
それを知った上で、何も知らない振りをしてリョウに選択を迫っている。
──知らなければ、踏み込む勇気すらなかったくせに。
「…アベル…」
リョウが小さく身じろぎする。
離したくなくて、アベルは腕に力を込めた。
「………私は、」
やがて聞こえて来た言葉は、ひどく不安定な響きを帯びていた。
「私は公国の住人じゃないし、世間の常識も知らないし、──普通の人間ですらない」
「…うん」
リョウのことをよく知らないままなら、そんなはずはないと否定していただろう。
だが今なら分かる。
世界樹と繋がっていた彼女は、確かに普通の人間ではない。
貫く意思も、振るう刃も、どこまでも強く鮮やかで──どうしようもなく、脆い。
多分そんな不安定さに、アベルは惹かれ続けている。
──彼女を支えるのは、背中を守り共に在るのは、自分でありたい、と。
だから、アベルはリョウに笑い掛ける。
「ねえリョウ、気付いてる? 異能を持つ俺も…俺たちも、普通の人間じゃないんだよ」
「……あ…」
「それでも皆、それぞれの人生を生きてる。異能があるからって、それを引け目に感じる必要なんか無いって…そう教わるからね」
異能に目覚め特殊部隊に配属されて、最初に教わったこと。
異能の有無は生き方に影響を与えるが、だからといってそれに殉ずる必要は無い。
他者を見下すな、驕るな、けれど自分を卑下するな──一見矛盾した教えに、とても混乱したのを覚えている。
だが、その本質はとてもシンプルなのだ。
他者も己も、等しく大切な存在だということ。
他と違うからといって、何かを諦める必要は無い。
「だから、リョウ。君も望んで。──君は、どうしたい?」
アベルが問い掛けると、リョウは沈黙した。
否定でも拒絶でもない。考え込むリョウを静かに待っていると、やがて彼女は掠れた声で呟いた。
「……私は……ここに居たい」
ここ。つまり、世界樹の傍だろうか。
(…そう、だよね)
ひどく胸が傷んだが、それがリョウの選択なら尊重しよう。
そう思って身を引こうとしたら、リョウの腕がアベルの背中に回された。
驚きに固まるアベルに、リョウが躊躇いがちに告げる。
「──アベルの傍に居たい。…私も…アベルが好きだから」
「リョウ…」
それが、どれほどの勇気と覚悟をもって紡がれた言葉か。
人外と化した皇帝を前にしても揺るがなかったリョウの声が、震えている。
「──ありがとう」
喜びと、驚きと──万感の思いを込めて、アベルはリョウを抱く腕に力を込める。
背中に回されたリョウの腕に、少しだけ力が入った。
──それがどうしようもなく、嬉しかった。




