61 反転の世界樹(3)
「──皆、下がって!」
鋭い声に、全員が咄嗟に飛び退る。
それを追って来ようとした瘴魔が、見えない壁に跳ね返された。
一体いつの間に展開したのか、目の前に宝生の結界が張られている。
アオイの凛とした声が響いた。
「──招来、雷嵐驟雨!」
──轟──!
視界が蒼白く染まり、轟音が響いた。
縦横無尽に走る無数の青い雷光が瘴魔を打ち、貫き、蒸発させる。
攻城戦級魔法に匹敵する、あるいはそれ以上の光景に、アベルは言葉を失った。
──雷光がおさまると、周囲の瘴魔は全て消えていた。
「…今のうちよ!」
アオイが胸を押さえ、荒い息の合間に叫ぶ。
一旦一掃しても、すぐにまた新たな瘴魔が出現する。その前に決着を着けろということか。
リョウが即座に世界樹に向かって駆け出し、皆もそれに続く。
「…」
世界樹の根元にようやく辿り着き、改めて見上げると、リョウは痛ましげに目を細めた。
樹皮の表面に張り付いていた苔は、灰色に変色してかさかさに乾いている。
一見無事なように思えた幹も、樹皮の裂け目から見える内側が赤みを帯びた黒に染まっていた。まるで血を流しているようだ。
世界樹、とリョウが小さな声で呟くと、ふわり、眼前に少女が現れる。
だが──
「…!」
その姿を見て、誰もが息を呑んだ。
薄緑色だったはずのワンピースも、白かった肌も、緑掛かった艷やかな黒だった長い髪も、半分以上が黒く乾いた質感に変わっていた。
薄っすらと微笑む顔も、数日前の面影を宿すのは右側だけ。
左半分は黒く塗り潰され、瘴魔と同じ紅い目に変わっている。
まだらに変化したその姿は、今の世界樹の状況そのものだった。
「──」
言葉を失うアベルたちに、少女は困ったように微笑む。
リョウと目線を合わせると、カタナを見遣り、静かに頷いた。
意味は、誰の目にも明らかだった。
──そのカタナで、自分を斬れ、と。
…その顔は、あまりにも穏やかだった。
「…っ」
リョウの表情が一瞬歪む。
彼女は、世界樹のことを『母親のようなもの』と言っていた。
今、その母親に、自分を殺せと促されているのだ。
「リョウ…」
アベルがそっと肩に手を置くと、リョウは暫し瞑目して深く息を吸い込み、強い目で少女を見詰め返す。
「──世界樹、ありがとう」
リョウの言葉に、少女が頷いて笑う。
そして『月晶華』たちを順に見遣り、アベルたちを見遣り、一人一人に微笑み掛けると──ふわりと浮き上がり、まだ白い右手でリョウの頭を優しく撫でた。
──さようなら、私の愛し児。
声なき声が聴こえる。
少女はさらに浮き上がり、リョウの頭から右手が離れた。
その指先が、すっとカタナを示す。
何か濃密な気配がカタナに流れ込み、少女の身体の黒い部分が一気に広がった。
「…!」
少女の姿が、世界樹に吸い込まれるように消える。
どくん、と、空気が振動した。
風もないのに世界樹の枝が大きく揺れ、さらに大量の葉が舞い落ちて来る。
その多くが、黒く染まっていた。
「──時間、稼いで」
リョウは軽く腰を落とし、鞘に収めたカタナを左腰に当てて右手を柄に掛ける。
視線は真っ直ぐ、世界樹へ。
──ィィィィイイイ──
カタナが甲高い音を立て始めた。
それはすぐに、聴こえない高さまで駆け上がって行く。
「ええ」
「任せておけ」
「邪魔はさせないさ」
アオイと宝生が手を複雑な形に組み、凍牙が剣を構える。
アベルたちも互いの死角を補うように武器を構えた。
黒い葉から、幹から、枝から、そして周囲の空間から──再び瘴魔が滲み出る。
ウォンと音を立てて宝生の結界がそれぞれを包み、モーリスの能力で身体が軽くなる。
「──翠刃!」
「付与、炎牙!」
アオイの風の刃と凍牙の炎の一閃が重なり、巨大な炎の刃となって大型の瘴魔を切り裂く。
「雑魚は任せてくださいっス!」
チェレステのスリングショットとブラウの投具が小型の瘴魔を刈り取り、攻撃を掻い潜った瘴魔にはモーリスとアベルが踏み込む。
瘴魔は明らかにリョウを狙っていた。
多分、これから放とうとしている一撃の気配に反応しているのだろう。
(邪魔は、させない)
ナイフを振るい、瘴魔を切り裂くたびに、氷を頭から被ったような感覚に襲われる。
宝生の結界があってもこの状況。あまりにも濃い瘴気が、辺り一帯を汚染している。
──それでも、動きを止めることはない。
そして──
「──」
リョウが小さく息を吸い込んだ。
瞬間、全員が一斉に元の場所へと戻り、宝生が結界を展開する。
合図も何も無かった。けれど確かにその瞬間、全員の意識が繋がっている感覚があった。
リョウの金色の目が、強い色を宿す。
「──屍式、滅!!」
喉を裂く、絶叫に近い声。
リョウがカタナを抜いた──見えなかったが、アベルはそう認識する。
斜め上に斬り上げる白い斬線が見えた気がした直後、視界が真っ白に染まった。
──ィィィイイ………ン
恐ろしく静かな真っ白い世界の向こう、澄んだガラスのような音が聴こえた。
「…」
数瞬後、白い光はゆっくりと消え、アベルは自分が目を閉じていたことに気付く。
目を開くと、周囲の瘴魔は幻のように消えていた。
宝生の結界を破ろうと目の前で牙を剥き出しにしていた獣型の瘴魔も、遠くからこちらを睨み付けて旋回していた鳥型の瘴魔も──瘴気の重苦しい雰囲気すら、薄れている。
ハッとしてリョウを見遣ると、彼女はカタナを振り抜いた姿勢で静止していた。
だが、そのシルエットがおかしい。
──カタナの刀身が、鍔に近い部分をわずかに残して、8割方無くなっている。
折れたわけではない──アベルは根拠も無く直感した。
(消し飛んだ……?)
ぴしり、奇妙な音が聴こえる。
見上げると、世界樹の巨大な幹に、端から端まで白い斜線が走っていた。
斬れるはずのない世界樹が、斬れる大きさではないはずのカタナで、斬られている。
ズ…と、巨大な幹がわずかにずれた。
直後、地面に一番近い枝が、音も無く根元から折れる。
「…!?」
そのままこちらに向かって落ちて来るかに見えた巨大な枝は、先端から白い光の粒子となって、虚空に消えた。
それが、次々連鎖する。
落ちる葉が、折れた枝が、幹から離れた途端に光の粒子となって消えて行く。
同時に、周囲の空気が少しずつ軽くなって行く。世界樹本体と共に、周囲の瘴気も消えているのか。
──そうして、大部分の枝が折れ消えた後。
遥か上空に、白い光が見えた。
それはどんどん地上に近付いて来て──幹が消えて光の粒子となっているのだと気付く。
「あ…」
──それは、あまりにも美しい光景だった。
苔むした樹皮がほろりと崩れ、崩れた先から白い光と化して行く。
光は周囲に大きく広がり、アベルたちの方まで包み込んだ後、ゆっくりと上空へ舞い上がって行く。
触れた光はただ温かく、瘴気で冷え消えっていた精神と身体を慰撫してくれているような気がした。
──いや、きっとそうなのだろう。
「──」
斬線から上が全て消えた後、光の中にあの少女の姿が見えた。
黒く変色していた部分は元の美しい色彩に戻り、柔らかく穏やかな微笑みは、とても幸せそうで。
──ありがとう。
一人一人に微笑み掛けた少女は、最後にリョウに向かって頷いて──光の粒子と化して、消えて行った。
──それが、凪の一族が守る反転の世界樹の、最期だった。




