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08.エヴァンス

「おい、セリウス。診療所で寝入るなんて随分といいご身分だな」


 冷ややかだが愉快そうな声が、頭上から響く。


 顔を上げると、淡い銀髪の男がベッドの端を靴で踏みつけるように立っていた。


「……痛い」


 じろりと親友を睨みつけるようにしながら、セリウスはしたたかに打ち付けたらしい後頭部を確かめるように撫でる。よかった。たんこぶはできていなさそうだ。


「気持ちよさそうに寝てたからな。蹴り起こさなきゃ、日が沈んでも目を覚まさなかったんじゃないか?」


「エヴァンス」


 恨みがましく視線を送ればエヴァンスは片腕を組み、片眉を上げながらニヤリと笑った。


 藍色の相貌が何かを探るような光を帯びて怪しく煌めいている。


 この診療所の主にして変わり者のセリウスの親友の一人だ。医師にしてはの武闘派で、男性患者に厳しく女性患者には老若男女問わず心を尽くしてもてなすのを主義にしている女たらしでもある。


 その彼が、幼馴染でもある自分の知らぬ間にあんな素敵な女性に出会っていたなんて。


「で? 何の夢を見ていたんだ?随分と幸せそうに見えたが」


 セリウスはその一言にドキリとし、途端に顔を逸らした。


 今一体自分は何を考えたのかと、眠気を追い払うように首を左右に振る。


「別に」


 昼間のクロフト嬢の姿が、また不意に脳裏をよぎる。細い首筋、襟元から覗く滑らかな肌。軽やかで落ち着いた優しい声音。自分に向けられた妖精のような美しい灰緑の瞳。


 思い出すたびに頬が熱を帯びるのを感じ、慌てて視線を落とす。


「別に、何でもない、です」


「はぁん?」


 エヴァンスの目は冷ややかだったが、口元には皮肉げな笑みが浮かんでいる。


 いつもなら無遠慮に追及するはずなのに、今日は何かを察したのか視線を送るだけに留めている風でニヤニヤと口の端を緩めている。


「けど、珍しいな。いつもは酒を浴びるように飲んだ次の日なんて、胸のむかつきと頭痛で動けないくせに。今日はやけにすっきりしてるみたいじゃないか?」


 セリウスは驚きながら、自分の体の調子を確認するように意識を巡らせた後、静かに頷いた。


 言われてみれば確かにそうだ。


 戦地から帰還してあれほど悩まされていた睡眠障害による疲労感や悪夢の蓄積による倦怠感が、嘘のように消えている。まるで「よく寝てすっきり起きた次の日の早朝」のような体の軽さも感じる。


「本当に不思議だ……」


 自分の指先に視線を落としながら、手を握ったり開いたりするセリウスの様子を眺めながらエヴァンスは診察室の机の上に置かれたままになっていたコップの方向に視線を送る。


 透明なガラスコップの底に少し粘度のある子どもシロップを処方する際に使用する樹液の名残が思い出されたからだ。


 今日は一日閉院状態だったので、来たとするなら彼女しかいないはずだ。


 補充待ちだった薬瓶や処方薬用の薬草が綺麗に整頓され、事務室に置いていた支払金入りの袋もなくなっている。その代わりに相変わらずの丁寧な文字での簡単な書置きと、領収書や発注書の控えの用紙などのこまごまとした書類がいつもと同じように置かれていて、相変わらずの完璧な仕事ぶりに思わず口笛を吹いたほどだ。


 かと思えば、新しい鎮痛剤の試作品薬液入りアンプルの横に彼女が近隣の菓子店で買い求めたと思われる甘味の少ないクッキーが袋ごと添えられていて、薬品の隣に食べ物を置くなんてどういう神経をしているのか、相変わらず抜けたやつだとため息をついたものだ。


 そのアルヴィスがどうやら、親友の体調の改善に一役買ったということは明らかだ。


 いやにすっきりとした顔で立ち上がる幼馴染の横顔は全く忌々しいが、彼女ならば造作もない事だろうとあたりを付ける。


 今日は朝から急な呼び出しがはた迷惑なことに入ったため、彼女に会えなかったことが非常に口惜しい。予定があるからと断固として拒否をしていたのに、それをねじ伏せて自分を招集しやがったあの軍部の変態野郎をどうしてやろうか、と脳裏で五通りの方法を考えてみる。


 エヴァンスは眉間にしわを寄せて長く息を吐いた。


 窓の外はいつの間にか闇に包まれ、夜が深まっていた。


 診療所の薄いカーテン越しに、王都の街並みがぼんやりと映り込む。


 家々の窓から漏れる暖かな灯りが点々と連なり、角度を変えながら巨大な一つのオブジェの一つのように光の帯を作り出している。煉瓦造りの煙突から立ち上る白い煙が月光を受け、静かに流れる川のように見えた。


 通りには、昼間の喧騒とは違う静けさが漂っている。だが、全くの無音ではない。馬車の車輪が石畳をきしませる音や、近くにある酒場から漏れ聞こえる笑い声と楽器の響きが、時折風に乗って運ばれてくる。


 診療所の前を足早に行き交う男たちの影が、街灯の淡い光に映し出される。片手にランタンを提げた職人らしき人物が通り過ぎると、その後を追うように猫が塀を飛び越えた。遠くでは鐘楼の時計が、短く澄んだ音を鳴らす。


「アルヴィスに会ったのか?」


 唐突な問いに、セリウスは顔を真っ赤にしながら振り返る。


「……何でそれを」


「お前のその反応で全部分かる」


 それで十分だとも言いたげに、エヴァンスは困ったように笑った。



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