ep.27 紺碧の歌声
海底宮殿の透明な大屋根を、賑やかな歌声が震わせる。
珊瑚の椅子に軽く腰掛けたセレイアは、声を張り上げる人魚たちに向かって笑いながら手を振り返した。
前回の儀式から五十年以上が経つ。そろそろ一人前の人魚となるというのに、彼らが相変わらずあちこちを遊び歩いては、それぞれの親に首根っこを掴まれ連れ帰されていることを知っていた。
歌も随分と上達したが、変わらずこのフレーズは苦手なようだ。乱れかけた海流を指先で軽く整えて、セレイアは頭上を見上げた。
大屋根の向こう側に、魚や海獣たちが集まっているのが見える。普段は捕食者と被捕食者である彼らも、この日ばかりは休戦らしい。宮殿から立ち昇る緩やかな流れに大人しく寄り添っている。
頬を撫でる優しい海に、セレイアはそっと瞼を下ろして、甘美な歌声の魔力に身を委ねた。
◇
セレイアが海面に顔を出す。そこでは沢山の船がちょうど帰り支度をしているところだった。
海の外まで儀式の歌声がどの程度届いたのかは分からなかったが、甲板にいる者たちの表情からして、きっと楽しんでくれたのだろうと思った。
セレイアは首元から笛を取り出すと軽く息を吹き込む。中に残った海水を振り落とし切るより前に、頭上から鳶色の翼が降りてきた。
差し出された手を取って、尾ひれが海面から飛び出す。船上の人間たちに軽く手を振ると、セレイアは男の首にしっかりと両腕を回した。
「いつだったかに、訓練をつけてやっていると言っていた者たちか?」
風の合間で聞こえたカイルラスの問いに、セレイアは紺碧から視線を戻して頷いた。
(そう、今回が初めての儀式なの。ちゃんと空まで聞こえた? とても上手になっていたでしょう? 歌もだけれど、皆泳ぎも速くなって、船の先導と遭難船の捜索に加わりたいって言ってくれてる子がいるわ。ああそれから、陸に上がって土壌と植生の研究をしたいって子もいるから、それは近々ノアリスに……っ!)
酷く聞き取りにくい掠れた声で捲し立てていたセレイアは、両手で口を押さえて数度咳き込んだ。
カイルラスは、両腕の中の柔らかな身体を遙か上空から落としてしまわないよう抱え直してから、呆れたようなため息を吐く。
「喋り過ぎだ。ようやくまた回復してきたところだろう。この間のように悪化させてみろ、次はメルヴィナに牢に放り込まれるぞ。何と言ったか……」
(黒石貝、ね。気を付けるわ。あそこは二度と嫌だもの)
喉を気遣いながら今度は短く告げて、セレイアは再びカイルラスの首に腕を回した。
翼が風を切る。また季節が巡るのだろう。頬に当たる風が先日よりもずっと冷たい。
首に回した手の片方をもう少し伸ばして、指先で羽根に触れる。くすぐったいからやめろ、という声があった。
ごめんなさい、と笑いながら謝って、セレイアがカイルラスの耳へと口を寄せる。
(ね、カイルラス。あなたが海を好きでいてくれるのは嬉しいわ。でも……きゃっ⁈)
がくんと感じた揺れに、セレイアは慌ててカイルラスにしがみついた。
風の切れ間だ、と悪びれもせずに言ってから、カイルラスは喉奥から笑い声を漏らす。
「そのような聞き方をせずとも、俺はお前の歌がこの世で最も美しいと思っている」
さらりとそのようなことを答えられて、セレイアは頬を膨らませてから、やがてくすくすと笑った。
(あと百年もすれば、また歌えるわ。真っ先にあなたのために歌ってあげる)
そう宣言すると、空中で尾ひれが楽しそうに持ち上がる。先端をひらひらと風にはためかせながら、セレイアはそっと口を開いた。
鋭い眼光を真っ青な空へと向けたまま、カイルラスが柔らかく微笑む。
相変わらず絶対安静を命じられた喉からは、音色が一切漏れ出ることはなかったが、確かに彼のもとには美しい旋律が届いていた。
◆ 後書き ◆
本話をもちまして、当作品は完結となります。
最後までお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございました。
この物語のどこか一節でも、誰かの心に響くものになれていたならば、書き手としてこの上なく幸いです。
なお、女性向け別サイト「ムーンライトノベルズ」でも、同名義(宵乃凪)で活動しております。
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次は、「国の腐敗を憂いて自ら手を汚してしまった王子と、彼に救われたヒロインが共に悪道に堕ちる話」を書いています。内容によってはムーンライト投稿の可能性もあります。
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それではまた、どこかの物語でお会いできますように。
宵乃凪




