ep.26 再出発 (2)
真昼時の入り江は、白い砂が太陽光を反射させている。
賑わいに顔を顰めた衛兵を、セレイアはまあまあと宥めた。
「父ちゃん! こっち! あのおっちゃんのパンがめっちゃ美味いの!」
「おい、分かったから走るな。はぐれて攫われたらどうする。セレイア様に免じて連れて来てはやったが……おい引っ張るな! 転ぶだろう!」
小さな手に腕を引かれて、衛兵はよろめきながら慣れない足で砂浜へと上がっていく。振り向いた男の困惑顔にセレイアは苦笑し、気を付けるように言って手を振った。
ひたひたと砂を踏みながら、セレイアは持って来ていた大きな布で腰から下を覆い隠す。周囲にそのようなことをしているリュアの民はいなかったが、少しでも彼の不快を取り除きたいのと、それから素足を曝け出したままというのも何となく気恥ずかしいような気がした。
入り江には多くの者が混在していた。物珍しさで陸から遊びに来た人間、陸と海の互いを相手に商売をする者、過去に陸に上がったというリュアの民や、警戒して尾ひれのまま浅瀬から様子を伺う者。ごった返す人影の中には、幾つか翼を持つ者の姿もある。王城仕えの衣装を纏った者もいれば、旅装束のような者もいた。
セレイアはじっと彼らの様子を伺う。楽しげに行き交っているように見えて、やはりそこには緊張した空気が漂っている。先月の交流会で人間とリュアの間に起こりかけたトラブルは、居合わせたヴァレアの男によって仲裁された。
ばさり、と頭上で音がした。見上げるよりも早く、目の前に影が降りてくる。
「待たせたか」
「――」
口を尖らせたセレイアに、それはすまない、とカイルラスが謝った。
「今朝早く、また一人大海の警備に加わりたいという者があった。南の珊瑚礁付近を任せようと思う」
「――、――」
「ああ、先日の葬儀の件には礼を言う。以前に話していた鎮魂歌だが、興味を示す者がいる。近く空へと還る予定の男だ」
「――」
「承知した、明日にでも連れて行く」
そのような会話を交わしながら、セレイアとカイルラスが入り江を歩く。
ふと視線の先で、少年が両手一杯に抱えたパンを頬張っている姿を見つけた。同じくパンを手にした男のポカンとした表情と、それを眺めて満足げに笑う商人を順番に見て、セレイアはくすりと笑みを漏らした。
「あっ、姉さん! 遅いわよ。言ってるでしょ、今日もそんなに時間ないの。この後はそのまま集落の方に行って水路の調査をして、山向こうの部族がそろそろ怪しいから軍務卿と相談して――」
「それから明日の会談の資料をまとめ終わったら、キミの子守唄で眠れると最高なんだけどな」
「馬鹿言ってないで早くまともな人材を寄越して。書庫はいつだって人手不足なの」
「はいはい了解お姫様」
メルヴィナと共に現れたノアリスは、隣の少女の睨み上げるような視線にやれやれと大きく肩を竦めた。
セレイアがメルヴィナのもとへと駆け寄る。白い手がぺたぺたと黒い髪、頬、肩と順に触れていく。
「――、――、――、――」
「大丈夫。問題ないってば。姉さんこそ、あたしがいないからってちゃんと寝てよ。しょうがないから明日の会談にはあたしも……ちょっと! やめてってば! 頭は撫でなくていいって、あたしは子供じゃないって言ってるでしょ!」
ああもう、とメルヴィナがセレイアの腕の中で身を捩らせる。
ノアリスはカイルラスへと耳打ちした。
「なあ、セレイアは何て?」
「いつも通りだ」
「まあ見るからにそうだろうなとは。全く、リュアの姉妹は仲睦まじい。オレにも少しは触れさせてくれたらいいのにな」
「三種族の文字を扱う優秀な文官を失いたいのであればそうすればいい」
「お前、海の血が混じってからオレには余計に辛辣になったよな」
友の恨みがましげな視線に、カイルラスは黙って肩を竦めた。
一つ息を吐いてから、調子は、とノアリスが問う。これまでの冗談めかした声ではなく、カイルラスも再びノアリスの顔を見た。
「問題ない。そちらは」
「おかげさまで頑張ってるさ。お前の寿命が延びた分、和平を見せてやるって約束は果たせるかもな。契約条件の後出しみたいで気持ち悪さはあるが」
ノアリスがじっとカイルラスの目を見返した。深海の色の奥底には確かに海の魔力を感じる。
それは祖先に遠く血を引いただけの自分よりも余程強く、もしかするとこちらの方が看取られる羽目になるかもしれないと、ノアリスはまた戯けたように続けた。
「瑣末なことだ。そもそもお前は寿命を全うする気があるのか」
「前よりはな。大義の前には些事だと思ってたが、彼女をあのつまらない王城に一人にする訳にはいかないしな」
「そう見くびると一層疎まれるぞ。リュアの姫君らは気高く、誇り高い」
カイルラスがそう言って、セレイアとメルヴィナの方を見る。少し離れたところで、二人はまたああでもないこうでもないと、喉の治療を試しているようだった。
ノアリスはカイルラスに並び立つ。体躯のいい男の顔をちらりと見上げ、その目が細められていることを見てから、がしがしと頭を掻いた。
「……求婚したらキレられると思うか?」
「少なくとも状況が落ち着くまではな」
微塵も迷いの無い返答に、ノアリスは小さなため息を吐いた。
「姉さん、どう? 少しは出そう?」
「――、――」
セレイアの口から漏れ出た空気の音に、メルヴィナは、もう、と不満げに口を尖らせた。
「これもダメね。分かった、明日はまた違うやり方を試してみる」
じゃあ帰るわ、と踵を返そうとする妹の腕を、セレイアが慌てて掴む。細い身体を抱き寄せて、ぎゅ、と両腕に力を入れると、肩口付近から呆れたようなため息が聞こえた。
「姉さん、明日も会うってば。言ってるでしょ。姉さんの喉が完全に治るまで、あたしは絶対に諦めないって。だからもう離してよね。陸の仕事の合間に、明日試す治癒を練習しておかなくちゃ」
「――――」
「えっ? まあ……案外、悪く無いわよ。海の民ほど純粋な存在じゃないけど、でもかえって混ざり者のあたしには居心地がいいわ」
セレイアがメルヴィナから少し身を離す。両手で肩を持ち、じっと妹の顔を見た。
そこに浮かぶ不満に、メルヴィナは思わず苦笑した。
「自虐で言ったんじゃないわ。いいのよ、半分人間の血が混ざっていようと、それがもしかして翼人だったとしても、別に大した問題じゃないわ。あたしは姉さんの愛する妹、そうでしょ?」
挑発的な笑みと共に告げられた言葉に、セレイアは数度目を瞬かせて、そして何度も大きく頷いた。
白い二本の腕が妹の身体をぎゅうと強く抱き締める。後頭部を梳く指の感触に、メルヴィナはまた抗議しかけて、やれやれとそれを飲み込んだ。そっと腕を伸ばして姉のことを抱き締め返す。
「――――」
「ええ、あたしも愛してるわ、姉さん。どこにいたってずっとよ。……でも次にまた無茶をしたら、あたし、姉さんを海から引き上げて城の牢に入れてやるんだから」
ぎくり、とセレイアが身体を震わせる。やがて苦笑しながら身を離すと、少し怒ったような妹の額に柔らかな口付けを落とした。




