ep.26 再出発 (1)
断崖に迫り出した大樹の枝から、いくつかの人影がふわりと飛び立つ。
突き抜けるような青空。上空の強い風に乗って、空の民がゆったりと旋回する。
連なった影がぐるりぐるりと大空を泳いでから、一人、また一人と集団から離れていく。
最後に残った甥子へ向けて、ヴァレアの長は霞みかけた目を細めて笑った。
「カイルラス、お前に、風の加護があらんことを」
「ああ」
離れる間際に一度だけ翼の先端を掠めて、カイルラスは舞い上がり、反対に年老いた翼の民はゆっくりと落下していった。
その光景を、海上から見つめる影があった。
彼の身体が羽の一片まで紺碧へと溶けたことを見届けてから、セレイアはとぷんと海中へと潜った。
◇
「セレイア姉ー!」
セレイアが海底宮殿に戻るよりも早く、小さな身体が泳ぎ寄ってきた。
どうしたのかと問うと、どうもこうもない、と少年は口を尖らせた。
「聞いてくれよ。皆入り江に遊びに行くって言うのに、父ちゃんが俺は駄目だって。危ないからって。でも、自由交流地? になったんだろ? 頼むセレイア姉、父ちゃんを説得してよ! だって今日はリュアのおっちゃんがパン焼いて持って来てくれる日だぜ? セレイア姉、お土産のパンって食べたことある? べっちゃべちゃで、ひっでぇの!」
まるで海流のように捲し立てて、うげ、と顔を顰める少年に、セレイアはくすくすと笑った。今回だけだと念を押してから、衛兵である父親を説得するために共に海底を目指す。
二人並んで泳ぎながら、少年はあちこちを指差しては嬉しげに報告した。遊び場から翡翠貝が減ったこと。小魚の群れを脅かしてやったこと。最後に岩の下から立派な剣を拾ったことを誇らしげに自慢する。
「剣はまた翼人に返してやるんだろ? ちゃんと大事に部屋に置いてあるからさ、なあなあ、次は俺も一緒に行っていい?」
きらきらとした眼差しを向けられて、セレイアはうーんと首を捻る。
前々回にヴァレアのもとへと行った時、翼の民に抱えられて空を飛ぶ息子の姿を見た彼の父親が、大波を起こさんばかりに慌てていたことを思い出した。
ついでに話はしてみるがあまり期待はするな。そのようなことをセレイアが告げると、少年はぶちぶちと過保護な父親への不平不満を漏らした。
◇
傷が塞がっても、セレイアの喉は完全には治らなかった。
大渦が消えたあの日。朝日の差し込む入り江で、ひとまずの治療を終えたメルヴィナは己の力不足を謝罪した。
生涯声が戻らないかもしれない。そう分かったところでセレイアは、それでも王座を退かないことを三人に宣言した。
「セレイアは何て?」
ただ一人海の意思が聞こえないノアリスが、メルヴィナとカイルラスに問う。
はあ、とメルヴィナがため息を吐いた。
「姉さんはお父様の後を継ぐって。それでなくても海は大混乱、問題山積みよ。歌声を失って、魔力も碌に制御できない状況で、どうにか出来ると思うの?」
すっかり呆れきった様子の妹に、セレイアは胸を張って頷いた。
そうか、とカイルラスも頷く。
「ならば俺は空から大海を見回る。そちらの衛兵と連携した方がいいだろうが、この辺りは追って話をせねばならんだろうな」
「は? 帝国の、翼騎士団の方はどうなったのよ」
メルヴィナが怪訝な表情で振り返る。視線を受けてノアリスが肩を竦めた。
「それはさっき解散させた、が……こっちの手数が完全に無くなっちまうのはさすがにキツいんだがな」
「残りたいものは残り、あるいは別の空へと行くだろう。我らは互いの意思を強制することはしない」
カイルラスが淡々と答える。ノアリスは、この薄情者、と恨みがましげに呟いた。
メルヴィナがやれやれと首を振る。
「自由と言えば聞こえはいいけど、ヴァレアって案外勝手よね。ま、からっとしてて少なくとも海よりは生きやすそうよ」
そう言って少女の瞳が少し眩しそうに空を見上げる。そんな妹の表情を見て、セレイアが嬉しそうに微笑んだ。
ノアリスは数秒だけ呆けた後で、つい先程まさしく自分が述べたのと同じ感想に、違いない、と吹き出した。




