3_13 据え膳食わぬは
女騎士は少年の狭くて華奢な両肩に手を置いた。
そして、うんざりと瞼を半開きにしたミハルに向かって力強く断言する。
非行に走った生徒を諭す教師のように、はっきりと一言一言噛んで含ませるような口調で。
「大丈夫!私があなたに、パートナーとしてちゃんと教えてあげます!」
「教える?アンタが俺に?何を?」
「もちろん、正しい男女の愛の育み方をです」
「お断りだ」
「なっ!?」
自分では良いことを言っているつもりだったらしい。そっけない少年の態度に、あからさまに女騎士は傷ついた顔をしてみせた。
あからさまに動揺する女騎士を前にして、ミハルはなんだか一人で真剣に悩んでいたことが馬鹿らしくなってきた。
自分がまだ入浴していないことを思い出す。
「風呂入ってくる……」
ますます疲労感を強くしたミハルは、女騎士の手を外すと、のろのろと立ち上がった。
「そ、そうですね……。これは気づかずに失礼しました。行ってらっしゃい」
「?」
「か、髪を乾かして待っていますから!貴方も体をなるべくすみずみまで綺麗にしてきてくださいね!」
「そういう意味で言ったんじゃねえよ」
何の準備のつもりなのか、もぞもぞと後れ毛を払いだした女騎士を無視してミハルは風呂場へと向かっていった。
脱衣所で唯一の衣服を務めていたタオルを放り捨てると、ミハルはため息をついた。
「何なんだよ、もー……。こっちは真剣に考えてるのに」
ぶつぶつとつぶやきながら少年は浴室の戸を開いた。
「もういっそ警察に突き出してやろうか……ん?」
浴室内の湿気が多いことと、お湯で濡れた床面に、ミハルは大事なことを思い出した。
ついさっきまであの女騎士が入っていたのだ。
当然、なみなみと張られたお湯に長時間浸かっていたことになる。
「…………」
浴槽内のお湯が揺れて蛍光灯の光を屈折させるのを見て、少年は固まった。
(まずい)
意識したら気になってしまった。
湯船の中にいろいろと落ちているかもしれない。
その……なんというか……体毛とか、老廃物とか、体の一部だったものが。
先刻まで目の前にあった、白い肌とバスタオルで辛うじて覆われて肢体が脳裏にありありとよみがえってくる。
髪の貼り付いたうなじ、汗の浮いた胸元、急角度でタオル地を持ち上げる腰回り……。
「えーい、ちくしょう……!」
諦めて、ミハルはお湯を抜いて自分はシャワーで済ませることにした。
苛立たしげにノズルを回そうとしたところで、自分の身体の一部に起きたある変化に気付く。
「嘘……今頃?もうやだ……」
局所的に血液が集中してしまうその現象に、ミハルは泣きたくなった。
結局生理的な反応が鎮まるまで、少年はシャワーの冷水を浴びて無為な時間を過ごす羽目になった。
――――――。
何故かどっと疲れた気分になって、髪の毛にドライヤーを当てるのもそこそこに寝巻をひっかぶると、ミハルは客間へと戻った。
「……ずいぶん長風呂でしたね?」
「悪かったな!」
「?」
剣呑な空気にきょとんとしたファム・アル・フートだが、気を取り直すように布団の前で座り直した。
「で、では始めましょうか」
身を起こしたファム・アル・フートは、布団の上に移動するとそっと横たわった。
「ちょ……!?」
「だ、大丈夫です。私も初めてですが、ちゃんと春画と枕本で予習してきました。任せて下さい!」
鼻息も荒く、顔中を紅潮させながら女騎士は断言する。
布団に身を預けながらも、首で頭を持ち上げ両肘をつき膝を浮かせたその恰好は、まるで器械運動の準備体操をしているようだった。
「さあ……。あ、あなたの方から来て下さい」
完全にその気になっているらしい女騎士を見て、少年はなんだか気の毒な気分になってきた。
「だからさ、俺はそんなつもりでアンタをうちに連れてきたのとは違うんだって」
「えぇ?そんなのおかしいではないですか!だって、その、と、伽をさせるために連れてきたのでしょう?」
「とぎ?」
少年は首を捻った。
単に男女の営みを指すその古語を知らなかっただけなのだが、ファム・アル・フートはその反応を見て不幸な勘違いをした。
「し、知らないのですか!?」
「うん」
「そこまで子供だっただなんて……!」
「どういう意味?」
「わ、私の口から言わせるつもりですか!?」
顔を真っ赤にして憤慨する女騎士に、少年はますます訝しげに眉を潜めた。
「話がよく見えてこないんだけど」
「ですから、その……よろしい。年長者の務めです!労を惜しまず最初から説明しましょう!」
「?」
「そこに座って!」
バスタオル一丁の女騎士は、真面目くさって少年に布団の上で座るように促した。
ミハルは訳も分からず言われるがままにする。
「え、"エレフン"ではこう座るのでしたね?」
「……」
ちょっと辛そうに女騎士が正座に足を組み直した。
バスタオルが上に引きずられ、白い太ももが露わになる。
少年はますます目のやり場に困ったが、女騎士は気にも留めず大げさに咳払いしてみせる。
「……貴方に大人になるための授業をしましょう」
「なんなんだ一体」
「とても大切なことです。結婚すれば毎夜の習慣になるのですからね」
「だから何が」
「講義は題して、『赤ちゃんの作り方』です」
「バカか」
「ふぎゅ!?」
少年のチョップを頭頂部に受けて、女騎士は思い切り前のめりにつんのめった。
「に、二度も打ちましたね!?」
「いやそういうの良いから」
「お父様にだって打たれたこと……そういうの?そういうのって何のことです!?」
「とにかく、ありえねーだろ!昨日会ったばっかの男に!」
苛立たしげに声をあげる少年に、女騎士は少し同情するようにうなずいた。
「人生の選択をこんな形で急に決めるよう言われて戸惑うのも無理はありません。貴方はまだ子供ですからね」
「成人しても結論は変わらねーよ」
「私もある日突然神造裁定者に召喚され、『お婿さんになる人を探してきてください』と口頭で命じられた時は戸惑ったものです」
「だからアンタんところの宗教観は分からな……えっ神の使命ってそういうノリなの?」
自分の運命を悲嘆するように遠くに目をやった女騎士だが、すぐにその瞳には光が戻り目の前の少年をねめつけた。
「しかし善良なる信徒は神々の望みに背を向けることはしません!これが私の聖務ならば、進んで貴方と結婚しましょう!」
「俺の意思は無視か」
「に、人間にとって一番の喜びは神の命じる生き方を全うすることなのですよ!なぜそれが分からないのです!?」
「文化の壁ってやつかな……」
「お店でお話したときに『協力する』と言ってくれたではないですか!」
「自分の人生を犠牲にするとまでは言ってねえよ」
目論見が外れたのか、泡を食ってあたふたと説得しようとする女騎士に少年は冷ややかな目つきを返した。
「とにかく困るんです!もう私の人生で夫として選べるのは祝福者である貴方だけなのです!でなければ跡継ぎが産めず家が途絶えます!」
「知ったことか」
「だ、大丈夫!男女の交合というのは悦楽が伴うそうですよ!オデットと春画から得た知識なので良く知りませんが!」
「アンタの頭の中はそういうことばっか詰まってんのか」
呆れた声を出した少年に対して、女騎士は顔中を紅潮させた。怒ったのだ。
「ひ、人を色情魔のように言わないでください!無礼な!私は結婚と出産さえできればそれで良いのです!」
「似たようなもんじゃねーか。今時青年指定マークの付いた本にも印刷されてねーぞそんな台詞」
「違います、神の剣は一次的な体の快楽なぞに惑わされません!妊娠できるよう貴方に射精さえしてもらえればそれで結構!!」
「射精言うな」
あくまでそっけない反応を示す少年に対して、女騎士もだんだん神経を逆なでされてきたらしい。物言いに少しづつ挑発するような棘が混じってくる。
「お、お、女にここまで求められて応じないのは男として甲斐性があまりにもないとは思いませんか!?」
「いや、全然」
「『据え膳と河豚汁を食わぬは男の内ではない』ということわざを知らないのですか!」
「異世界人のくせに良く知ってんなそんなことわざ」
女騎士が一体どこで、『夏祭浪花鑑』の原文ママを耳にしたのかまでは少年は気が至らなかった。
「あくまで平和的な交渉が通用しないなら……」
「今の会話のどこに平和的な交渉があった!?」
「実力行使で既成事実を作るまでです!」
「なっ!?」
突如としてファム・アル・フートの紅色の目が決意に座った。
少年が慌てて腰を浮かすがもう遅い。
所詮もやしっ子の反応と脚力が、鍛え上げられた女騎士のそれに叶うはずもない。
立ち上がろうとするミハルに、体格も重量も上回るファム・アル・フートの体が勇躍して掴みかかる―――。
「えっ?」
―――ことはなかった。
「な……足!足に力が!?」
跳躍のつもりが両足に力が入らず、女騎士は生菓子のような丸尻を天井に向けて掲げるような形で布団に突っ伏した。
「……!」
足が痺れたのだ。
話に夢中になっていたのと、慣れない正座の姿勢を取り続けていたせいで血の巡りが悪くなり女騎士自身でも痺れに気付きにくくなっていたのである。
「ま、待って!待ってください!逃げないで!」
危うく強姦されるところだった少年は頬に一筋の汗を垂らしながら、生まれたての小鹿のように懸命に起き上がろうとしてできないでいる女騎士を見下ろした。
「……」
「ど、ど、どうです!?抵抗できない半裸の女が目の前にいるのですよ!好きにしていいんですよ!?男はオオカミなんでしょう、オデットから聞いて知ってますよ!?」
布団と体重の板挟みで潰れて広がった双乳の上で辛うじて持ち上げた何故か顔が半笑いになっている。
その上で飴細工のように曲がった背中の頂点で、逆ハート型の尻が不随意筋の塊と化した両足の上に乗って辛うじてバランスを保っていた。
時折ビクビクと全身をわななかせながら、どうやら誘惑しているつもりらしい。
「…………」
ミハルはちょっぴり期待していた心が急速に萎えてしぼんでいくのを感じた。
これではムードも何もあったものではない。
「―――ごめん、無理」
「へ?」
「今日はもうそのまま寝て良いから……。明日の朝じいちゃんが帰ってくるまでに荷物まとめてくれ」
「な……ちょ、待って!」
陸に打ち上げられたメキシコサラマンダーのように緩慢な手つきで呼び止めるファム・アル・フートを無視して、ミハルは自分の部屋へ戻っていった。




