3_3 男子高校生は見た!
喫茶『マンガラ』は敷地12坪、客席はテーブルも入れて10席程度の小さな店だ。
駅から通りをいくつか挟んだそこそこの立地と、それなりの家賃がするごくありふれた喫茶店である。
ミハルが以前祖父に店名の意味を聞いてみたところ、サンスクリット語で『火曜日』らしい。
なんでも喫茶店をやろうと思いついたのが火曜日だったからだそうだ。こういうところは豪放というかいい加減な人なのだ。
この店を始めたのは5年前、それまで経営していたギフトカードの交換・販売業者を人に譲ってのことだ。
家族からは猛烈に反対を受けても『60過ぎたしもう金儲けは良い』と言って祖父は一切意に介さなかった。
そのまま知り合いを何人か頼りに業者に物件を紹介させ、中古の焙煎機までさっさと仕入れてしまった。
特に有名店や繁盛店という訳でもないのだが、祖父自身の昔の友達が常連になってくれているおかげで客足は一定数を確保している。
新規起業した飲食店の大半は3年以内に店を閉じてしまうのがほとんどという世相の中、店舗を構えて5年間黒字経営を続けているというのはなかなかの業績と言っていいだろう。
人的コストが極端に少ないために、常連をある程度捕まえればそれでなんとかなってしまうのが家族経営の喫茶店というものなのである。
その『マンガラ』の営業時間は7時まで。
お客のほとんどは周囲のリタイア者向けのマンションから来るシニア層だからこその営業時間だった。
客足が絶えたのを見計らってミハルがおそるおそる店頭に出ると、祖父が明るい声で笑いかけてきた。
「おう。落ち着いたか?」
「……ごめんね」
「そんなに落ち込むな。客商売してたら完璧な仕事してても、めちゃくちゃな理由で怒られることくらいしょっちゅうだぞ」
この店は幸いなことに変な客は少ないけどな、と祖父はつけ足してきた。
片づけは明日にして焼肉でも食いに行くか?という祖父の提案に、ミハルは首を振った。
「ちゃんとやっとく。甘やかさないで」
「そうか」
家の手伝いという名目でアルバイトを始めてから2週間経つが、これでは役立たずのままだ。
せめて掃除くらいはきっちりやってみせなくては、と思う。
「じゃあ俺は飲みに誘われてるから、片付けは新人くんに任せて遊びに行かせてもらおうか」
そう言って祖父は、火とガスにだけ気を付けろよと言ってさっさと出て行った。
小さな嘘をついて一人になる時間を作ってくれたのだということくらいミハルにも分かったが、気を遣われているようでは半人前以下だという反骨心もむくむくと湧き出してくる。
まだ痛みが残る鼻をすすりながら、ミハルは店内を清掃し始めた。
<<CLOSED>>の立札をドアにかけて、掃除用具を取り出す。
基本は上から下。まずはテーブルの上を全部綺麗に拭いて、アメニティの類を改める。
食器類を洗って水を切り、モップで床を水拭きする。
テーブルクロスを交換して、契約している業者が回収してくれる洗い籠に放り込んで片づけは終了した。
掃除が終わってから、いつも通りキッチンスペースで練習することにした。
いつもならエスプレッソとスチームミルクでラテを作るのだが、今日は祖父が飲みに行ったことだし、夕食もついでにすませてしまうことにした。
冷蔵庫を開けるとちょうど期限切れが近い卵をいくつか見つけた。
掃除で体を動かしたのが良かったのか、落ち込んだ神経は少し陽気さを取り戻していた。
どうせなら新しいことに挑戦しようと気分が湧き出してくる。
一度やってみたかったフライパン一個分の巨大オムライスを作ることにした。
玉ねぎを手早くみじん切りにすると、まかない用の鶏肉と一緒に小さなフライパンに乗せて火を通す。
冷ご飯と混ぜ合わせてチキンライスを炒めている間、片手間に大きなフライパンにたっぷりの油で卵を泳がせ始める。
破かないようにフライパン一杯に広げて、出来上がったチキンライスを乗せる。
ちょっと苦労して大皿の上でひっくり返し、仕上げにケチャップで文字を添えて完成だ。
せっかくなので<<welcome>>とアルファベットで書き添えてみた。初心者には高望みだったようで文字は潰れてしまったが、そこは自己満足だ。
「いただきます」
折角掃除したテーブルを使うのが勿体なく思えて、厨房で立ったまま巨大なオムライスにぱくついた。
(うむ。我ながら良い出来)
柔らかな半熟卵の衣に包まれた少し濃い味付けのケチャップライスの取り合わせの妙に自画自賛したくなる。
メニューに出しても良いくらいかもしれない。祖父に相談してみようかという気持ちにさえなった。
……が、ミハルがぱくぱくと食べていられたのは最初の数口だけだった。すぐにスプーンの動きが鈍くなる。
自分の普段の食事量を考えずに作ってしまったことをミハルは後悔した。
加えて皿一杯のボリューム感は問題がある。見た目と匂いだけで胃袋が満足してしまう。
空腹は最高の調味料とはよく言ったもので、今では単価と客層を考えたらとても売り物にならないという気がしてきた。
「……」
更の2/3ほどを占める卵料理の処遇についてミハルは悩んだが、どうせ結論は決まっていた。
「……捨てちゃえ」
祖父が知ったら『食べ物を粗末にするな』と良い顔しないだろうが、残しておいても仕方ない。
(どうせ明日には捨てる卵だったんだし)
そう自分に言い訳しながら皿とスプーンを片手に、裏口のゴミバケツへと向かう。
契約しているゴミ回収業者が朝には来て、他の生ゴミごと持っていってくれるはずだ。
「……?」
店の裏手、雑居ビルの路地裏へとつながる勝手口のドアを開こうとしたところで、その音に気付いた。
何やら物音がする。
裏口に詰まれた食料品や消耗品の入っていた空箱の中身を物色する音。
足を踏みかえる音。
ネコや野良犬とは明らかに違う、人の気配だ。
小さな心臓が胸の中で跳ねまわるのと同時に、自分の全身からさっと血の気が引いていくのが分かった。
(…………強盗かもしれない!)
こんな小さな喫茶店でも、一応レジに現金は置いてある。
祖父が客へのサービスと半ば自分の趣味でで置いてあるアンティークな家具やカップの類もある。
それに厨房器具を根こそぎもっていけば、盗品でも転売屋が出す金はそれなりの額にはなるだろう。
入居している雑居ビル自体は警備会社と契約してはいるはずだが、どこまで信用できたものか怪しい。
それに自動通報システムが働いて警察と職員が駆けつけるまで数分はかかるだろう。
それまで自分が無事でいられる保証はない。
――――――本当ならそこでドアを閉じ、戸締りを確認し、すぐにじっとやり過ごせばよかった。
何なら店の電話を使って自分から通報しても良かった。
実は何事もなくて、『人騒がせな!』と後から叱られるかもしれないが、犯罪の被害に遭うよりずっとマシだったはずだ。
昨日チンピラの類に絡まれたことを思えば、それくらい慎重に立ち回っても不思議ではなかったはずだ。
……その時の自分はどうかしていた。
後からミハル自身でもそう結論するくらい、突飛な行動を取ってしまった。
仕事の失敗のせいで自分で思う以上に冷静さを欠いていたのかもしれないし、店の役に立ちたい気持ちが先走って空回りしたのかもしれない。
心の中は兎のようにびくびくしているのに。
心臓は縮み上がっているのに。
音を立てないようにそっとドアを開けて、外の様子を覗いてしまった……。
「……」
最初は何も分からなかったが、だんだんと常夜灯の暗がりに目が慣れてきた。
確かに人がいる。
ゴミ箱を置いてあるあたりで、こっちに背中を向けているようだ。
かなりの長身だったが、輪郭のなだらかな曲線から見て、おそらくは女だとミハルはあたりをつけた。
さらに目が慣れて、かなり細かいところまで判別がつくようになってきた。
不思議な興奮がドアノブを握る手のひらの内側に汗をかかせた。
人相を覗いてやろう、とミハルはドアの陰ごしに身を乗り出す。
「…………えっ?」
その恰好を見た瞬間、つい数瞬前まで感じていた恐怖も忘れて、呆然と立ち尽くしてしまう。
その人影は長い金髪を後ろにまとめ、大きめのヘッドセットを頭にかけていた。
銀色の甲冑を身に纏い、手甲でゴミ回収バケツの蓋を開いて、中に食べ物がないかを何度も確かめている。
女騎士だ。
女騎士がいる。
女騎士が、うちの店のゴミ箱を漁っている!




