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吹き抜けた強い風。
それと一緒に、何かが下から上へと勢いよく飛び上がった。
ソフィアのはちみつ色の髪を大きく翻らせたその何かを追って頭上を見上げると、そこには人が浮いていた。
浅黒い肌の、筋肉質な男の人だ。
「ジン! 来てくれたんですね! ……あ!」
彼の腕にはさっき飛び降りてしまったばかりのターニャが抱かれていた。
ソフィアは大きく安堵の息を吐く。
(そっか、ジンを見つけたから、ターニャ王女は飛び込んでいったんだ)
しかしうまく受け止めてもらったとはいえ、あまりに無謀すぎる行為だ。
ソフィアはターニャにきつく目を吊り上げる。
腰に手をあてて、頭上に浮く彼女に聞こえるように大きな声を張った。
「ターニャ王女! いくらなんでも危険すぎます! 今度あんな事したらお尻ペンペンですからね!」
「おしり?」
こてんと、小さな頭が傾く。ソフィアはしっかりと頷いてみせた。
「えぇそうです。しかも一回じゃすみませんからね。もう百です、百回! お尻が真っ赤っかになっちゃっても、絶対やめてあげませんから!」
とても悪いことをした子供には、お仕置きとしてお尻ペンペン。
これはソフィアの家のしつけとしてあったもので、乳母や姉、母に何度かやられたものだ。
やられた理由も納得できるものばかりだったし、今思い出しても手加減されていたとわかる。
そんなふうに自分が悪いことをしたときのおしおきとして育ったものだから、子供を最大限に叱るときに自然と出てきたのだった。
「おしり。ひゃっかい」
「遠慮なくベシベシやってやります」
もちろん、王女であるターニャは一度もされたことなんてないのだろう。
本当に心底びっくりしたというふうに丸い目を見開いてぽかんとしている。
「……しょふぃあも、ほんとにおこるのね」
「はい?」
ソフィアはとってもとっても怒ってて、お尻たたきまですると宣言しているのに、ターニャはどうしてかもじもじと照れたみたいにしている。
お尻たたきが嬉しいわけではもちろんないだろう。たぶん。
訳が分からなくて首をかしげるソフィアに、彼女は小さな声を漏らした。
「いままで……わたしをほんきでおこるのはね。かぞくいがい、めうしあだけだったの」
「え」
ソフィアは自然と、メルシアの方を振り返った。
彼女は屋上の地面に膝から崩れ座りこんだまま、呆然としている。
頬には涙のあとがあった。
「よ、かった……生きてて……」
メルシアはターニャが生きていたことを、心から喜んでいる。
安堵から、さらにポロポロ泣き出してしまった。
「なんだこの男は! なぜ飛んでいる! 化け物か!? メ、メルシア! 私を護れ! 私からの援助がなければ、お前の母親は薬が買えずに死ぬんだぞ!」
「っ……!」
トーマス子爵の言ったことに、さあっとメルシアの顔色が青くなる。
目を涙でいっぱいにしたまま、震えている。
(……なるほど。メルシアさんは、お母様の命をまもるためにターニャ王女を裏切ったんだ)
主人であるターニャと家族を天秤にかけたうえで、家族を選ぶことにしたのだろう。
それまでにどんな苦悩があったのか、どんな経緯があったのかを、ソフィアは全く知らない。
(でもやっぱり、嫌いになれないなぁ)
メルシアのした『ターニャ王女誘拐』は、取り返しのつかない大罪だ。
ジンがここへ来たということは、場所も犯人も特定できていて、もう言い逃れも難しいのだろう。
(もし、私がメルシアさんと同じ状況だったらどうするんだろう)
母が病気で、王女付きの侍女がもらえるほどに高い給与でもまったく薬のお金が足りなくて、もう悪事に手を染めるしか助ける方法がなくなったなら。
母の命のために、誰かを裏切り、罪を犯してしまうのだろうか。
きっと母は泣くだろうしやめろと言うだろう。
けれどそれでも死なせたくなくて、やってしまうのだろうか。
誰のためだろうと絶対に犯罪をおこさないなんて言いきれない。
だってそれでもいいと思えるくらい、大切な人の命を守るため。
自分の身に起こったことではないのに、想像で気分が重くなった。
自分ならどうするだろうと考えても、答えもでない。
他の方法を示す具体例も思い浮かばない。
そんなソフィアの耳に、思いがけない人の声が届いた。
「おいジン。いい加減におろしてくれ」
「え、あれ? ルーカス様?」
ジンの背中に背負われていたらしく、すっぽり隠れていて見えなかったけれど、どうやらルーカスも一緒にきていたようだ。
ふわふわと宙に浮いているジンの高さは、ジャンプして降りるには少し高すぎたから、ルーカスは彼が降りてくれるのを待っていたのだろう。
「ルーカス様、いたんですね。でもなんでそんなにこっそりしてたんですか。私、気付かなかったじゃないですか」
「好きでそうしてたわけじゃない! ソフィアの王女への説教が始まってしまって、口を出すタイミングをなくしてたんだ!」
「あら。それは失礼を――わ、わっ!?」
高度を落としたジンの背中から飛び降りるなり、駆け寄って来たルーカス。
彼はそのまま飛びつくみたいに突進してきてソフィアの首に手をまわした。
背伸びした彼に強い力で引き寄せられ、腰を曲げる格好になったソフィアに、さらに覆いかぶさるように体重をかけてくる。
「ル、ルーカス様っ。ちょっと待って」
「もう無理。待てない」
ソフィアの戸惑う声を聞き入れてくれず、ぎゅうぎゅうに抱きしめてくるルーカス。
その体が震えているのに気づいてしまった。
「ソフィア。よかった……。生きてた。よかった」
「……ルーカス様」
まるでもう絶対に離さないという意思表示みたいに。
大切なものにすがりつく子供みたいに、強く強くソフィアを抱きしめてくる。
近すぎて顔が見えないけれど、きっと泣きそうな顔をしているのだと想像できた。
「ソフィア、ソフィア、ソフィア」
まだ声変わりしていない少年の弱々しい声が耳をうつ。
切ない声でソフィアの名前を繰り返し呼ぶ。
どれだけ心配をかけ不安にさせたのたか、それだけで分かった。
じんと、胸の奥が温かくて痛くなった。
(……あったかい)
自分を強く抱き寄せる彼は、自分よりずっと小さく幼いのに。
とても頼もしく思えて、安心出来て、ほっと力が抜けた。
いつの間にかソフィアも自然と彼の背中に手を回していた。
――――が。
「っ! ソフィア、こっちだ!」
「わっ!?」
元々膝を曲げていた体勢のソフィアは、いきなりルーカスに腕を引っ張られてバランスを崩し、地面に座りこむ形になってしまった。
なんだろうと見上げ振り返ると、そこには剣を構えたルーカスが背中を向けて立っていた。
ルーカスが立つ場所より向こうにいるトーマス子爵の持った鞭の先が、剣に巻き付いている。
トーマス子爵がソフィアの背中に打ち付けようとしたムチを、ルーカスが腰から抜いた剣で受け止めた形なのだろう。




