続編1―プロローグ―
透き通った水が湧く湖のほとりに、美しい花々が所狭しと咲き誇っている。
その周囲には瑞々しい果実をつけた木々が、のびのびと育ち葉を茂らせる。
人には入り込めないよう人外の力で護られたこの森奥の一帯は、まさに楽園と呼ぶような穏やかで神聖な空気が漂っていた。
そんな場所で、一人の美しい女性が苔に覆われた倒木に腰かけ、ぼんやりと宙を眺めている。
緑がかった銀髪は彼女の身長よりよっぽど長く、草地へと流れ落ち広がっていた。
しかし眉の上でカーブを描いて切りそろえられた前髪の奥にある同色の瞳には、一筋の光さえない。
彼女はもう随分長く、笑うことも泣くこともぜず、無表情のまま、ここに座ってただひたすらぼーっとしているのだ。
「うまー」
「うまうまー」
周りには手のひらサイズの小さな妖精たちが、無数に飛び交っていた。
「ふはぁ、しふくぅ」
「これはとくにすてきなやつ」
どこからか持って来たお菓子を、妖精たちがみんなで一欠片ずつ楽しんでいるらしい。
よほど美味しいのか、どの妖精も幸せそうに顔を緩ませている。
大笑いしながら草の上を転げ回っていたり、取り合って喧嘩して泣き出したりもして、とても賑やかだ。
そんな中でも、彼女は無言でぼんやりとただ呆けている。
なにせ彼女はとても面倒くさがりで、指をぴくりと動くのさえ面倒くさがっていた。
「きょーも、うごきませんねぇ」
「いつものことー」
「あ、これはどうだ?」
「おかし?」
「そー。いれてみよーぜ?」
「ひとかけらさしあげる?」
「ふとっぱら」
「ぽいっといく?」
「ぽいっと」
ポイっと、小さな何かの欠片が薄く開いていた唇の隙間に放り込まれた。
妖精たちがこぞって食べていた、何か焼き菓子の欠片らしい。
彼女の舌の上に落ちたそれは、口の中に甘みをゆっくりと広げていく。
「……っ?」
ぱちり、と。
ものすごく久し振りに彼女が瞬きをした。
人形かと見まがうほど無機質だった緑がかった銀色の瞳をきょろきょろと左右に動かし、白くて細い首をこてんっと傾げる。
その後ゆっくりと、口の中にあるものを舌で転がす。
ほんのわずかな焼き菓子の欠片は、ゆっくり、ゆっくり、甘味を舌いっぱいに広げていった。
舌だけでなく、喉に、腹に、指先の隅々にまで、心地良く優しい甘さが広がって、体全部をめぐっていく。
パチリ、パチリ、彼女の瞬きが早くなる。
思わず、十代半ばの容姿にしては低い声が唇から漏れた。
「何じゃ……、これ……」
噛むまでもなく喉を通って滑り落ちていった焼き菓子に、全身が震えた。
まさに頭上から雷に打たれたかのような衝撃だった。
「な、な……っ、一体なんなのじゃこれは! おい其方たち……!!」
「っ!?」
話しかけられた妖精たちは、彼女の勢いにビクゥッと揃って一度飛び上がったあと、教えてくれる。
「ソフィアさんのつくったおかし」
「うまいだろ?」
「よいあじ」
「ごくじょーのおかし」
「お菓子―――ソフィアというのは?」
「にんげんのこー」
「おんなのこー」
「おーとにいるっす!」
王都に居る、ソフィアという人間の女の子が作ったお菓子。
たどたどしい口ぶりの下級の妖精達から聞き出した情報に、彼女は惹かれた。
「もっと、食べたいのぅ」
ごくりと、喉があふれた唾液を嚥下する。
――――欲しい。欲しい欲しい欲しい。欲しくてたまらない。
このおかしなお菓子は、一体なんなのだろう。
たまに、妖精や精霊に影響を与える力をもつ人間が顕われることがある。
でも流石にこんなもの、彼女は知らなかった。
ここに多くいる下級妖精なんて小さなもの達ならともかく、『四大精霊』のうちの一人――世界の風を統べる『シルフ』である自分が、どうしようもなく引き寄せられるほどの力、初めてだ。
「――ふふっ」
薄桃色の唇が、にんまりと吊り上がる。
真っ白だった頬が紅色に色づく。
素足のままのシルフは草地の上になめらかに立ち上がった。
一歩進むと、長くそこに居続けたために地面から伸びて足に絡んでいた植物がプチプチとちぎれていく。
全部をちぎり、湖の傍に立ったシルフはくるり、くるりと軽やかに回り踊った。
動くのがとても面倒くさかったのに、わくわくして、踊り出さずにはいられなかった。
共に回るのは、シルフの力の源である風。
起こる風の渦に、小さな妖精たちは巻き込まれてくるくる回る。
「わぁー」
「めがー! めがまわるぅー!」
「ふふっ! 回れ回れ! ははははは!」
長い長い髪が翻り、薄く軽いドレスがひらひら流れる。
軽やかな笑い声が、森に響く。
「欲しいのう! もっと欲しいのう! ソフィアか、そうか。その人間を手に入れればよいのだな! ふふふ! ふふふふ! 面白そうじゃ! わくわくするのう! 楽しみじゃのう!」
こんな一口だけの欠片でなく、もっとたくさんの彼女の作るお菓子を食べたい。
欲しい! 欲しい! 欲しい! と、欲望が絶えることなく沸き上がって来る。
しかし、ふと足が止まった。
「まて、王都と言ったな? この地のか」
「そー」
「ふうむ……」
さて、困った。
この国の王都にはアレがいる。人間が大好きで、何百年も王族の誰かに常にくっつき続けているアレが。
次期妖精王候補が一人、最上級妖精のジンーー。
自分が王都に近づけば、この大きすぎる力の気配で気づかれて何をしに来たんだと警戒されるだろう。王都は、ジンのテリトリーの中心なのだ。
自然から生まれた『妖精』より、自然そのものである『精霊』の自分の方が力は上だが、手こずるのは想像にかたくない。
「面倒事は極力さけたいのう」
だって自分は、自他ともに認める面倒くさがりだから。
今さっき、百年ぶりくらいに立って歩いた程には、何をするのも面倒な性質だから。
揉めると妖精と精霊の間で、とても面倒くさい争いが長く長くおこることになるのだろう。
「……あぁ、そうか。わたくしでなければ良いのだ!」
王都に行くと面倒なことになるのなら、誰かに捕まえさせて、運んで来て貰えばいいだけだ。
自分が王都に近づかなければ、あれには気づかれまい。
「良さそうなのはきっとその辺に落ちとるだろうのう。なにせ人間は、愚かなまでに貪欲な生き物だ」
ほんの少しの褒美をやるだけで、愚かな人間はきっと自分の願いをかなえてくれる。
面倒くさいけれど、もう一度あれが食べたくて仕方がないから。
ソフィアという人間の女を手に入れて連れて来るところまでしてくれる、便利な人間を探せば、もう自分はあとはのんびり待つだけでいい。
これはとてもいい思い付きだ。
「ふふふ! ふふふふ!」
彼女はまた踊り舞う。
感情に釣られて巻きあがる風の渦に、下級妖精たちは揃ってくるくる回される。
「はっはー! なんかやっちまったかな!」
「ソフィアさんにしれたらおこられるぅ!」
「おかし、もらえなくなる?」
「なるかもぉー」
「かなしすぎ。ごうきゅうもの」
「だまっとくっす!」
「「「うっす!」」」
四大精霊シルフの口にきっかけとなる焼き菓子を放り込んだ彼らは、無責任なことに見て見ぬふりをすると決めたのだった。
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