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ソフィアと関わることは、今後もう無いだろう。
口に出すとじわじわと実感がわいて来て、ルーカスは沈む気持ちに釣られうつむいてしまう。
そこへ、穏やかなマークスの声が降って来る。
「ルーカス。ソフィアは、あの家が危険な場所だと分かったのに、変わらずに菓子を届け続けた」
「……そうですね」
「なんの得もないのに、毒に倒れたお前を看病もし続けた」
「……はい」
「短剣を振り回すエリオットから、身を挺してお前を守ろうともした」
「はい……」
「普通なら全部、無理矢理に菓子を作らされているだけの相手に、出来る行いではない」
「えぇ……。貴方、どこまで細かく知ってるんですか……」
思わず口を尖らせたルーカスの抗議は、あっさりと流された。
マークスは、さらにゆっくりとした口調で言う。
まるで幼い子供に言い聞かせるかのような優しい声で。
「自らに危険が及ぶかもしれないのに、それでも傍にいてくれる女性は貴重だぞ。――たぶんもう、一生出会えないくらいに、だ」
「…………分かって…ます」
あんな態度を取っていたのに、たくさん馬鹿にしたのに。
傍にいたって何の得も無く、危険しかないのに。
危険な家だとわかったら、まともな人は皆逃げて避けて行ったのに。
元々フィリップ家に居た普通の使用人たちは、みんな居なくなったのに。
それなのに強引に関わってきてくれた、傍にいてくれた、ただ一人の人。
あの強さとまっすぐさが、目が眩むほどに眩しい。
ルーカスが長い間築いてきた心の壁は、彼女によって少しずつ、確実に、完全に崩されてしまった。
「…………」
これほどに自分を揺らがす女性に、この先また出会える気がしなかった。
たぶんソフィアは、ルーカスにとって生涯ただ一人の、心から信頼出来る相手。
このまま関係を終わらせるなんて、するべきではない人だ。
(でも……)
ルーカスは顔をさらにゆがませる。
(一緒に居て得をするのは、僕の方だけだ)
無意識に噛みしめた奥歯から、ギリッと鈍い音がした。
なんとなく目の奥が熱い。
しかも、喉が詰まって掠れたような声しかでてこない。
「僕の傍にいたって……ソフィアには何にもない。損しかしない。現に、僕はまったく役に立たなかった。傷つけた」
ルーカスはエリオットに、まったく全然歯が立たなかった。
切りつけられた彼女を守ることが、出来なかった。
何の力もない自分の傍にいたって、ソフィアのこれからに良い事なんて本当に一つもない。
なのにこれからも縁をつないでおこうとするなんて、迷惑でしかないのにと、躊躇してしまう。
「だから、これから出来るようになれば良いんだろう」
「え?」
「力も、知識もそう。必死で覚えて身につけて使えるようになれば良い。そして地位や権力も、大切な人を守る為の力になる」
「本当……ですか……」
地位も権力も、いままでルーカスを脅かすものでしかなかったのに。
大切なものを守るための力に、本当になるのだろうか。
揺れるルーカスに、マークスは力強い瞳で、思わず信じてみたくなるくらいに、しっかりと頷いてみせる。
「もちろん、使いこなすのはとても難しいものだがな。だがそうする為の手は貸そう」
「…………」
ルーカスは、しばらく無言でいた。悩んで、考えた。
そうして十分ほどの沈黙の時が過ぎたあと、長い息を吐いて、顔を上げる。
「……――分かりました」
その青い瞳には強い決意が滲んでいる。
もう迷わないと、決めた。
「――――伯爵位、僕が継ぎます。使いこなして、大切なものを守る為の力にしてみせます」
「そうか。それは何より。私も、優秀に育つだろう人材の育成がこれから楽しみだ」
にっこりと笑ったマークスの顔を見て、彼の手の中で転がされたのだと悟った。
たぶんルーカスが頷くように、話を仕向けられたのだろう。
でもまぁ、それでも構わないと思えてしまう。
「では、至急にルーカス・フィリップへの伯爵位移行の手続きをしようか。成人する十八歳になるまで、私が後見人として君の保護者代わりにもなろう。まずは勉強の為に良い教師を見繕わなくてはな」
「宜しくお願いします」
それで用は終わったらしい。
ではな、と去って行ったマークスの後ろ姿に、ルーカスは深々と頭を下げる。
その直後、ルーカスは自分の手のひらを開いて見下ろした。
「…………。まだどこからどう見ても、子供の幼い手だ」
だがこの手が大人になった時――――。
どんな状況でも自分を助けよう手を差し伸べ、必死になって動いてくれた彼女を守れるようになっていたい。
他の誰でもない。
ソフィアを、守れるようになりたいのだ。
「うん」
ルーカスは手のひらを握り込み、顔を上げた。
視界に広がるのは、澄み渡った青い空。
優しい風が、励ますように肌を撫で、金色の髪を揺らがせる。
そこへ、ひらりと小さな影が舞い降り、澄んだ鈴の音のような声がかけられた。
「ルーカス」
「あぁ、リリーか。お帰り。……リリー。僕、明日にでも会いに行こうと思うんだ」
今まで告げた酷い言葉全部を謝って。
そしてーー……。
「もう一度、やり直したいんだ。新しい関係を築きたい。ちゃんと、向き合いたい」
相手が誰とは言わなかったが、伝わったらしい。
目の前に浮く白銀の髪をした美しい妖精は、きょとんと見開いた目をすぐに柔らかく細め、本当に嬉しそうに微笑んでくれたのだった。




