もはや善悪ではない
異界の言葉に、撃墜比という言葉がある。
空中戦における自軍と敵軍が、一機が死ぬ間に何機の敵を倒せたか、という意味を表す。
その方式に当てはめるのであればアンダルム男爵とローズメイ一党の戦いは『0:50』であった。
150名の兵士を動員し、その結果としてただの一人の敵さえ撃つことさえ出来ず。無残に屍を野に晒す事となった兵士の気持ちはいかばかりのものか。
戦争において三割に迫る兵数の壊滅は大変に手痛い被害といえる。
この報告を受け取ったアンダルム男爵は目を覆いたくなる惨状に悲鳴をあげるだろう。
まぁ、でも敵だったし、とローズメイは一人思った。
敵将の苦衷を思うと、かつて戦争指揮官として戦っていた醜女将軍としては同情とお悔やみの言葉を発したくなるが、アンダルム男爵からすれば元凶に同情されたくもないだろう。
ケラー子爵の領地へと入ることはそう難しくなかった。
近場の水場で血糊を拭い、返り血を浴びた外套がわりの獣の皮を外し、荷物にまとめておく。これで外見が『獣の毛皮を身に纏う蛮族』から『身奇麗にした8人ほどの小隊』に見えるだろう。まぁ神父は相変わらず喋れないようにふんじばられていたし、調べようと思えば幾らでも調べられただろう。
狼龍シーラは、流石に街中には連れて行けない。
ケラー子爵の領土はアンダルム男爵領より豊かではあるが、それでも国境近くの片田舎となると、あんまり大差は無かった。
狼龍シーラを綱から外し、森の中で一夜を過ごすように命令する。
そのまま旅籠へと足を運び、ローズメイとシディアは女性用の二人部屋へ。
家来衆と騎士ハリュは男同士の雑魚寝部屋へと押し込まれることとなった。
もちろん、せっかく暖かい食事と酒にありつける好機である。
家来衆もハリュも、酒場へと繰り出した。
食事を続け、安酒を流し込むように飲み続け。
……騎士ハリュが、一端先に帰る、と言って席を外しても、誰も気に留めはしなかったのである。
夜の中、村の少しはずれの茂みの中で、動き易い衣服に身を包んだ使用人――リーシャは帯剣したままのハリュに軽く目を細めた。
「……あんたが男爵様の敵に回るなんてね」
騎士ハリュは、この村に辿り着く途中で……見知った顔とすれ違った事に目を剥いた。
セルディオ様お付きのメイドである彼女と若年の騎士見習いであったリーシャは時折顔を合わせて話す間柄だ。
これは騎士ハリュの母親が……アンダルム男爵家に仕えるメイド長のような立ち位置にあり、リーシャはハリュの母親に色々と使用人のいろはを学んだ仲であったからだ。
騎士ハリュの父親は元々アンダルム男爵に仕える騎士であったが、しかし先の戦争の最中で勇戦して戦死。生計の成り立たなくなったハリュの母を哀れんで男爵は自分の家で面倒を見る事にしたのである。
もっとも、その母親も一人でハリュを育て上げ、騎士として生計を立てていく目処がついたあたりで緊張の糸が解けたのか……ある日、眠るように往生していた。
「こちらにも……男爵様に愛想を尽かす相応の理由はあったんだ。自分が薄情かどうかはそれを聞いてからにしてくれ」
騎士ハリュは、薄情とは程遠い。正直世渡りの下手な善人で、リーシャは彼の亡き母に代わり色々と心配をした事もあった。
その彼が、色々と恩義のある男爵を裏切るというのが、リーシャには信じがたかった。正直、あの黄金の女が魔術を用いていう事を聞かせているといったほうが信じられるかもしれない。
いや、あの美貌を考えれば、ヘタに魔術など使わなくてもいう事を聞かせられないが。
そんな疑念を受けていることを感じたのだろう。ハリュは首を振って、さて、どこから話し始めたものかと考え――あ、そうだ、と一言を付け加える。
「セルディオ様はどこにいらっしゃる? ……そんな顔するなよ、若様おつきの君が一人でいるとは思えない」
「……や、これは参ったな」
「若様っ!」
暗中に向けて発した言葉ではあったが、リーシャの指示に従い大人しく闇の中に身を潜めていたセルディオは姿を見せる。
(……遠いなぁ)
ハリュは内心そう思った。
幼い頃から目の不自由なセルディオだが、その聴覚の鋭敏さは舌を巻くほどだと聞いている。騎士たちの噂話では、彼を煙たがった兄達が差し向けた刺客を独力で斬って捨てたという話だってある。
恐らくこの距離からであろうとも、二人の会話を正確に聞き取ることのできる聴覚の持ち主なのだろう。
実際、ハリュはこの光に恵まれなかった若君の身ごなしが、自衛の域を越えた研ぎ澄まされたものだと察している。もちろん新たな主と仰いだローズメイの暴風のような武威には抗えまいが……少なくとも、自分では勝てる気がしなかった。ローズメイの加護を受け、肉体の能力が大いに向上していると自覚した今でさえもだ。
「まず最初にお話しておきますが。あの黄金のひとの不利になるようなことは申し上げられません。そこはご了承ください」
その言葉に噛み付くようにムッとした目をするのはリーシャ。
「あんたは、アンダルム男爵様の恩義を忘れたの?」
「……自分が騎士になったのは食うため、というのはあるがな。それでも受け入れがたい事はあるよ」
ハリュは、自分が体験した事、ローズメイとその一党と行動を共にする事によって知りえた事、その全てを話した。
途中、ハリュは自分が大体知ることの全てを話した事に首を傾げ……次いで納得する。ローズメイ、あの黄金の女は、こと他人に話して後ろめたさを感じるようなことを何一つ行っていないのだ。指導者としてなかなか稀有な事である。
次いで、あらましも語った。
バディス村を襲った狼龍とそれを操る元チンピラ、悪漢どもの振る舞い。その後でバディス村の川上にある砂金と金鉱脈の存在を隠蔽する為に発された殺戮のための軍隊。その後で屍者を奴隷の如く労苦にこき使おうとする、亡くなった人への尊厳の冒涜。付け加えて、アンダルム男爵の長男とその長年に渡る連続殺人と、それに対して正しく罰さなかった貴族の病理の如き傲慢さ。
どれも、許されるべきことではない。
「……話を聞くと、その黄金の女。ローズメイ殿は一人で十人を斬ったとか?」
「今回の戦いで数えている暇はないとのことでしたが。まず間違いないかと……」
ハリュは、主筋であるセルディオの言葉に素直に首肯する。
そして……セルディオは――リーシャが初めてみるような、心の底から楽しそうな笑みを見せていた。
「若様……どうなさったのですか? 微笑むようなことが?」
「……ああ、いや。笑っていたか、僕は」
セルディオは忠実な侍女の言葉にようやく自分の顔面筋の変化を知ったかのごとく頬を撫でた。
リーシャは主人の微笑みにいぶかしむような視線を向ける。彼女が長年付き従っている若様は、民衆に対して無意識な傲慢さを見せる男爵様と違い、とてもお優しい。この若様の気性を考えるならば、父親が裏で行っていた陰険無比の策略に激昂し、今すぐ男爵領に取って返して物事の理非を突き付け、父と正面対決する道が相応しかろうと思っていた。
騎士ハリュも、事情を話した事が黄金の女ローズメイに対する裏切りという意識はない。
セルディオ若様は物事の理非を弁えた人物でこの後、彼はローズメイの味方になっても敵にはなるまいという考えがあった。
ハリュとリーシャの考えは正しい。
セルディオは父の振舞いに大いに落胆していたものの、これは必ずや正さねばならないと思っている。
だが――彼の心には、正義をなさねばならないという気持ちを凌駕するもう一つの鬱屈があった。
セルディオは、目が見えない。
これを悲しんだことはなかった。実際のところをいうと、彼は別に傍仕えのものがいなくても十分一人で生活する事ができただろう。指を鳴らして音を立てたり、自分が乗った馬の蹄が鳴らす音だったり……自分の身近より発された音が反射する反応を耳で捕らえ、脳内で実像として再現する、異能と呼ぶに相応しい超感覚を有していた。
その気になれば、使用人の手助けなどなくとも自由に馬を走らせる能力があったのだ。
……己の才能に気付いたのは今よりいくらか昔。
上の兄達が、父のアンダルム男爵から末っ子の優れたセルディオに地位を譲られることを恐れて暗殺者を差し向けたことがある。
己の中に潜む剣の才能に気付いたのは、暗殺者を唐竹割りに両断してのけたことだった。
セルディオは剣を使う事の面白さに目覚めた。
南方へと留学した。本を読んだ、本を読んだ。そして夜な夜な野試合めいたことを体験もした。体を動かすことを、周囲のものは健康のためだと信じ込んだ。
暗殺者を両断してのけた剣腕を、大勢の者たちは『偶然だろう』と笑って過ごした。
(……目が開いているのに真実も見抜けない連中め。お前たちの両眼は光を映しながらも、なに一つ見えていない)
目が見えない事を不利と思った事は無い。
だが音は光より遙かに多くの事柄を教えてくれる。ただ感覚が違うだけだ。
なのに。自分の周りの連中は、ただ目が見えない事に対して親切そうな声をあげてくる。
僕を、哀れむんじゃない。
自分に忠実に仕えてくれるリーシャでさえ、セルディオは時折どうしようもない憤懣をぶちまけてしまいたくなる衝動を飼っていた。
そうしないのは、彼女が、自分に対して悪意で接しているのではないと分かっていたからだ。セルディオは長年そういった鬱屈した本心を理性と自制で雁字搦めに縛り付けてきた。
自分は哀れまれるような人間ではないと声高に叫んでも、誰も彼も自分の事を『目が見えないのに、周りに心配を掛けまいとする立派な人』という色眼鏡でしか見ない。
だが。
たった一人で、50余名を戮殺してのける恐るべき黄金の怪物を。
もし自分がたった一人で撃ち果たしてみせたなら。
両眼に光を映しながら何一つ見えていない盆暗共に、はっきりと一つの真実を突きつけてやれるのではないか。
僕は、強いのだと――人生最高の晴れがましさで叫ぶことができるのではないか? と。
その想像は、善悪を超越してセルディオを魅了してやまなかった。




