魔性
狼龍シーラはまず大陸でも類を見ない名騎であった。
その速力も馬力も素晴らしいものだが……同時に、狼龍は敵の軍馬に対しても極めて有効な戦力だ。
……馬というものは本来臆病である。その臆病な馬を調教師が丁寧に訓練を施して、ようやく大勢の人間が乱戦する戦場でもまともに運用できるように育てるのだ。
だがそれにも限度というものがある。
狼龍シーラは龍種という絶対的な捕食獣であり、馬はやはりどうやっても草食獣だ。
その血に刻まれた食うもの食われるものという関係性は、人間がよほど丁寧に訓練を施しても容易に覆せるものではない。
ビルギー=アンダルム男爵はそのことを踏まえ――150名というたった8人を殺すにしてはあまりにも大仰な兵数を歩兵で統一していた。
狼龍が敵であるなら、騎兵を用意しても意味はあるまい。何より、ただの歩兵より騎兵のほうが育成に時間が掛かるのだ。
サンダミオン帝国が本格侵攻するあかつきには、隠し金山の財力と密かに鍛え上げた兵士を揃え、近隣の領土を侵略する。その野心と欲望を叶えるための精兵であった。
「て、敵の女が、一人で来ますっ!」
「うろたえるなっ! ……馬鹿か? 狼龍が相手だろうとこの80名を相手に何が出来るものか……槍兵、構えぇー!!」
アンダルム男爵に仕える騎士が命令を下せば、長槍を構えた歩兵が整然と隊列を組む。
それを遠目に見るローズメイは、ほぅ、と感嘆の溜息をこぼした。その歩兵の動きは、地方領主のものとは思えないほどに整っていたからだ。
そして、アンダルム男爵が、己が領土より出た金銭と時間を掛けて丁寧に整えた兵士を倒す事に、ほんの、ほんとうにほんのちょっと、罪悪感が疼いた。
アンダルム男爵の兵士は定石どおりに動いた。
すなわち接敵前の、槍兵の背後に控える弓兵による一斉射撃である。
「構えぇー!」
彼らが慢心していたなどと言うのはおかど違いだろう。
たった一騎で突進してくる敵などもはや弓の良い的であり、槍衾の良い標的でしかない。そも、何でたった8名に対して150名も出すのだろうか。そういう不満が彼らにはあった。
もう一つだけ不満があるなら……遠目でも輝くほどに麗しい絶世の美女をむざむざ殺さなければならない事に、少しばかり残念な気持ちになった程度である。
だが、ローズメイはそんな敵の前線指揮官の考えなど露知らず――激しく揺れる騎上にて、投槍器を肩に掛けた。腕は肩の高さ、投槍器を後ろに構え、槍投げの姿勢。
……投槍器は大昔、弓矢が出現する前まで存在していた道具だ。
投擲武器を、靴べらの曲線部のような部分に引っ掛けより力を正確に伝播させるそれは、単純な投げ槍の威力と精度を恐ろしく向上させる。
本来ならば、矢の本数だけ放てる弓矢のほうが射撃武器としては優秀ではあった。しかしローズメイは今回自分の膂力に耐えうる剛弓を得る事は出来ず、弓よりもずっと構造が単純で、弦が切れるという故障のない投げ槍のほうを選んだ。
強力神の膂力で発せられる投槍の一撃は、ほとんど一直線に飛んでくる黒い影のようにしか見えなかっただろう。
「放……?!」
射撃命令を発そうとした指揮官は何か熱いものを感じ、口蓋を強烈な異物感と灼熱感に貫かれた。
既に口に飛び込み、脊椎を砕いた一撃により、一瞬の後に絶命し崩れ落ちる。
「へ、へっ?! し、指揮官殿っ?!」
指揮官が討たれた――それも、あの遠方から前方で槍を構える槍兵の人垣を潜り抜け、指揮官の大きく開いた口内に投槍の切っ先を叩き込む。
それこそその気になれば、この場にいる全員の口の中に槍を放り込める技量の持ち主なのだ――今回ばかりは指揮官でなくてよかった、と弓兵は安堵し――ついで、今自分達を殺そうと、絶世の美女が一人で突撃を掛けていることを思い出す。
「う、討てぇ!」
指揮官の次に偉い兵士が号令する。
きりきりと引き絞られた弓から一斉に矢が飛び立った。
それはまるで飛蝗の如く空中を矢で染め、放物線状を描いて降り注いでいく。
……もし、この場でアンダルム男爵の盲目の末子、セルディオが飛ぶ矢音を聞きつけたなら、一言『薄い』と評したであろう。
何より弓兵の一斉射撃というものは、空中へと放たれ、そののち重力にしたがって落下してくる。その勢いは人間を容易に射殺せしめるが……一つだけ、射撃を避けえる活路があった。
ひたむきな前進である。
「ハッ!!」
「グァアアァァァァ!!」
ローズメイは太ももで狼龍シーラの胴を締め付けて走る。
鐙と轡があったほうがいいのは確かだが、ローズメイは凄まじい脚力で疾走する狼龍シーラに蛭の如く強烈にしがみつく筋力があり、そして狼龍シーラには轡を用いて騎手の意志を知らせる必要のない類稀な知性があった。
ローズメイが狼龍シーラのおなかを足で軽く数度蹴る。それを合図に、騎龍はさらに疾走する速度を上げた。
これまでの騎速はおおよそ6割の力で。そしてローズメイの合図に、狼龍シーラは全速を引き出した。
地面を耕すかのような強烈な踏み込みで、満天を埋める矢の黒い影を――遅いわ、阿呆め、とローズメイは笑って駆け抜けた。矢玉の全ては地面に空しく突き立ち、ただの一人さえも絶命させえぬ無駄打ちに終わる。
しかし……矢の雨という死地を潜り抜けたローズメイに更に槍衾という新たな死地が待ち受ける。
弓での一斉射撃を潜りぬけた相手を迎えるべく、穂先に刃のきらめきを有した槍が、一斉に先端を構える。槍兵の二段構え。騎兵突撃の天敵の如き迎撃姿勢にローズメイは笑った。
「龍を馬と同じに見たか、阿呆」
「グアアアアァァァ!」
背に負う騎手の言葉に『その通りだ』と同意するような咆哮と共に、狼龍シーラは――その爆破的な脚力を蓄積するかのように深く身を屈め、その身に乗った勢いのまま空中へと跳躍した。悠々と切っ先の群れを飛び越え、そのまま敵兵を爪にかけながら着地する。
隙間無く組み立てられた槍衾が騎兵突撃の天敵だとしても――しょせん、馬を倒す戦術。龍を殺すには至らぬのだ。
「ガアアァァッ!」
「ひっ。ひえええっ!」
「む、無理だ、こんなのとまともにっ!」
「馬鹿、逃げるな、たたかえっ!!」
彼ら歩兵にとって狼龍と白兵を演じるなど冗談ではない。事実、戦えと叫んでいた勇敢な兵士が真っ先に吹き飛ばされて死んだ。
狼龍の身に纏う鱗と隆起する筋肉の逞しさ。その爪の一撃は一撫でで兵士の肉体に四列の爪痕を臓腑へと刻みつけ、絶命へと至らしめ。その長大な尾は容易く骨肉を粉砕する筋肉の鞭となる。サンダミオン帝国の属領州のもの達が、最高峰の戦闘獣として期待をかけたのも無理はない。
まるで殺戮の渦。狼龍がその四肢をのたうたせるたびに血肉が爆ぜ、モノも言えずに即死するか、苦痛と絶望に塗れて苦しみ緩慢に死ぬかの二つに一つな残酷が振舞われる。
「だ、駄目だ、に。にげっ!」
兵士はそう叫びながらも……頭の中で何か重大な事を忘れていることに気付いた。
あの狼龍の騎手はどこに消えたのだろう? だが、死より遠ざかることのみに専念し、ひたすら走ろうとしたその兵士は……一つの死から遠ざかるあまり、もう一つの死に接近していることに気付かなかった。
はひ、はひ、と息を吐き散らしながら逃げようとした兵士は――……剣を振るい、槍兵の間合いに踏み込み、散々に陣地をかき回す黄金の女を見た。
ひどく恐ろしく残酷に死を振りまいているはずなのに、なぜか美しいという気持ちが湧き上がる。切っ先が旋回するたびに、槍の内側にもぐりこまれた兵士が切っ先を腹に打ち込まれて。刃を真上に跳ね上げ、胸骨を砕き、恐らくは心臓を破ったのだろう……一際強烈な鮮血が傷口から吹き上がり、返り血になって黄金の髪をぬらす。
破れかぶれに近い絶叫と共に繰り出される刃――数人が申し合わせて一斉に振り下ろされる斬撃を、刃の根元、もっとも頑丈な部分で受け止め、成人男子数名の膂力を、たった一人、女の細腕一本で押し返していく。
返しざまに振るわれる刃。
水晶の塊が破砕されたかのような、澄んだ美しい音と共に剣がへし折られ、続けての一閃で首がまとめて舞う。
極彩色の地獄であった。
その兵士は逃げることも戦うこともできずに、ぺたん、とへたり込む。あまりにも美しく、あまりにも容易く人が死ぬ異様な光景すぎて、現実味が失われていた。
その兵士の茫然自失の行動は、生きることを目的とする生物としては間違っている。
しかし……命を捨ててでも、その目を離せないほどに強烈な何かというものは存在する。絶世の美貌とその手が奮う地獄の如き殺戮の様相。
そんな命の危機の光景に対して見惚れたように動けないならば、やはりそれは『魅入られた』というに相応しく。
ローズメイのその姿は『魔性』の謗りを受けても仕方のないような、一種異様な魅力を有していた。




