麻美
「俺の今の気持ちが分かるか? 麻美?」
ミキハル君が、私に詰め寄る。
今朝、知らない番号からSMSのメッセージがあった。
「今日、ライブ開始1時間前にビルの七階に来い。俺の言う事を聞かなければ、お前の身内に危害を加える」
私は身震いした。
内容も然ることながら、メッセージを送った者が、私の電話番号を知っているということが怖かった。
「ライブ開始1時間前」と書いてあることからすると、私の素性も分かっているのである。
おそらく住所をはじめ、身内の情報もバレている。
ビルの七階は、テナントの入っていない空室だった。
そして、床にはドロドロとした液体――ガソリンが撒かれており、部屋の中心にミキハル君がいた。
ミキハル君は、私が部屋の入り口に立っていることに気付くと、ベチャリベチャリと音を立てながら近付いてきて、私の腕を乱暴に引っ張った。
私は前のめりに倒れそうになりながらも、なんとかミキハル君の腕を振り払った。
そして、今のこの状況に至るのであるが、正直、まだ私は事態を飲み込めていなかった。
「アイドル様には俺の気持ちなんて分からないよな?」
ミキハル君の目は、真っ赤に充血している。
口調や声のトーンを含め、いつものミキハル君ではなかった。
ミキハル君は、私の熱心なファンの一人である。
性格は温厚で、優しい。
長年私を応援してくれているだけでなく、常に私のことを気遣ってくれた。
特典会の最中に、私が「きりんちゃん」の件で思わず弱音を吐いた時も、真摯に話を聞いてくれた。
「きりんちゃん」に対して、反抗するようなリプも送ってくれていた。
そのミキハル君がなぜ――
「おい、麻美、いつものお喋りはどこに行ったんだ? こういうときに限ってだんまりか?」
ミキハル君は、狂犬のような顔で、私に迫ってくる。
それが怖くて、私はとっさに後退りをしてしまう。
そういえば、ミキハル君は、先ほどから私のことを「麻美」と本名で呼んでいる。
本名を知っているファンがいないわけではなかったが、ミキハル君は今まで私のことを「みま」と芸名で呼んでくれていたはずだ。
ミキハル君の中で、何らかの心境の変化があったのかもしれない。
「きっと飼い犬に噛まれるなんて思いもよらなかったんだよな? 俺らみたいなバカなファンたちは、ずっと騙し続けられると思ってたんだよな? いつまでも肥やしにし続けられると思ってたんだよな?」
「……違う」
反射的に言葉が出ていた。
本当に違うのである。
「私は、ファンのことをバカだなんて思ったことはない」
売り言葉に買い言葉で、私の喋り方も若干ぶっきらぼうになってしまっている気がする。
「よく言うぜ。ファンのことを騙してるんだろ? その気もないのに、色香を振り撒いてよお」
「違う」
「何が違うんだ!?」
――本当に違うのだ。
私がファンを騙して何になるというのか。
私がアイドルをやっているのは、紛れもなくファンのためである。
ファンは、私のことを好きでいてくれている人だ。
私は、私のことを好きでいてくれている人を幸せにしたい。
それこそが私がアイドルをやっている目的であって、それしかない。
ファンを騙すだなんてもってのほかだ。
色香を振り撒く?
そんなことをしている自覚はないが、もしもミキハル君にそのように捉えられるようなことを私がしているのだとすれば、それも偏にファンに喜んでもらうためである。
「騙してるじゃねえか!? 俺は、雨の日も雪の日も工事現場に立って働いて、稼いだお金を全部お前に注ぎ込んでんだよ!! それなのに、お前はそれを嘲りながら、俺から搾取した金でオシャレをして、裏でカレシとよろしくやってるんだろ!?」
「カレシなんていない」
「嘘つけ!!」
「嘘じゃないよ」
――本当にいないのである。
過去には異性と交際したこともあるが、アイドルになる前の話である。
アイドルになった以上は、カレシは作るべきではないと思っていたし、実際に、忙しない日々の中でその必要は一切感じなかった。
それに――
私は、過去に交際していた男以上に、今いるファンに対して、より大きな愛情を与えているつもりである。
男女交際における愛情は、結局は見返りを求めてのものだと思う。
その見返りは、お金だったり、ステータスだったり、愛されることだったりする。
他方、アイドルとファンの間の愛情は、必ずしも見返りを求めるものではない、と思っている。
ファンは、単に私のことを「好き」と感じたから、私に「好き」と言い、応援してくれる。
私も、そうしたファンに対して、好感を覚える。絶対にそのファンを幸せにしようと思う。
それゆえに――それだけがゆえに、アイドルとのファンの間の愛情関係が成立するのである。
私は、この業界に入り、この愛情関係の美しさに魅了されていた。
この世界は、他のどんな世界よりも美しい。
巷に転がっている低俗な惚れた腫れたに身を堕としてしまうのは、あまりにももったいない。
「じゃあ、麻美、俺と付き合ってくれよ」
ミキハル君はそう言った。
私は、内心ガッカリする。
ミキハル君は、私が恋人に対するもの以上の愛情をミキハル君に注いでいることが分かっていないのだ。
「それはできない」
「はあ!? 俺が今までいくらお前に貢いだか分かってるのか!?」
「分かってる」
そんなの痛いほど分かっている。
もしも私がこういう仕事をしてなければ、一ヶ月、いや、二ヶ月働き詰めでも稼げないような金額を、ミキハル君は、当然のように毎月私のために出費しているのである。
でも――
「でも、付き合うことはできない」
私は、断固として言った。
ミキハル君なら、私の言いたいことが理解できるはずだと、心の底では信じていた。
「俺のことがそんなに嫌いなのか?」
「違う。ファンのことはみんな大好きだよ。当然ミキハル君のことも」
本心である。
「じゃあ、どうして俺と付き合えないんだ?」
どうして――
どうしてミキハル君は分かってくれないのか?
ミキハル君は、恋人同士では決して立ち入ることのできない美しい世界にいながら、その素晴らしさを理解できないというのか。
それはあまりにも不幸なことだ、と私は思う。
「ミキハル君は分かってないよ」
「俺に何が分かってないって!?」
ダメだ。ミキハル君は、本当に分かっていない。
仮に私と付き合ったとしても、ミキハル君は今以上の何かを得られるわけではないのに。
生身の私は、みまよりもはるかに価値がないものだというのに。
ミキハル君がマッチ箱からマッチを一本取り出す。そして、箱の側面で擦って火をつける。
私は、その時はじめて、ミキハル君の手にマッチ箱が握られていたことに気付いた。
同時に、床に撒かれていたガソリンの意味にも気付く。
「分かってないのは麻美、お前の方だろ? この状況が分かってないんだ。もし、俺がここでこの火をガソリンに落としたらどうなると思う? お前と俺は間違いなく死ぬ」
ただそれだけじゃない、とミキハル君は続ける。
「この上の階は楽屋だろ? ここは消防法を無視して作られている雑居ビルだ。お前のユニットのメンバー全員が逃げ遅れて焼け死ぬだろうな」
ミキハル君が、恐ろしいことを言う。
それは絶対にさせてはならない。
私だけが死ぬならまだしも、メンバーを巻き込んでしまうだなんて。
セゾンstationのメンバーは、唯一無二の私の仲間である。
彼女たちを死なせるわけにはいかない。
「ミキハル君、お願いだから、メンバーは巻き込まないで」
私は懇願する。
何とかしてメンバーの命を救わなければ。
「じゃあ、麻美、お前のすべきことは分かってるよな?」
ミキハル君は、火のついたマッチ棒を持ちながら、バッと両手を広げる。
「麻美、今、俺を抱きしめてくれ」
――それも絶対にできない。
私はアイドルである以上、誰か特定の男のものになってはならない。
そんなことをしてしまえば、私は、私の命よりも大事なファンを裏切り、傷付けてしまう。
そうなれば、アイドル失格である。
私がアイドルでいることが、父と母にとって最大の喜びなのだ。
それに――
私は「きりんちゃん」とも約束している。
「きりんちゃん」に好きになってもらうまで、アイドルで居続けると。
私は、どうしてもアイドルであり続けなければならないのである。
「俺の女になるんだ。そうすれば、誰も不幸にならずに済む」
この台詞を聞いて、私の頭によぎったのは、ミキハル君が私の携帯に送ったメッセージである。
「今日、ライブ開始1時間前にビルの七階に来い。俺の言う事を聞かなければ、お前の身内に危害を加える」
「俺の女になれ」というミキハル君の命令を聞かなければ、私の身内――私にとって誰よりも大切なたった一人の妹――に危害が及んでしまわないだろうか。
仮に今この場を上手くやり過ごすことができれば、メンバーは救えるかもしれない。
しかし、最終的に私がミキハル君の要求を飲むか、ミキハル君が私のことを諦めない限りは、珠里はいつまでも安全にはならない。
珠里の身に万が一のことがあることだけは、絶対に避けなければならない。
「……ミキハル君は私と付き合いたいだけなんだよね?」
「……ああ。そうだ」
「メンバーに恨みがあるわけじゃないんだよね?」
「もちろん。ただ麻美が欲しいだけなんだ」
私の中には、この袋小路を抜け出せるある最適解が見つかっていた。
この方法をとれば、私はアイドルであり続けながらも、ミキハル君は私のことを諦めてくれる。
私にとって命よりも大切な珠里、メンバーのいずれにも危害は及ばない。
私は、ミキハル君をしばらくじっと見つめる。
これから私がすることで、ミキハル君は、生身の私を諦めざるを得なくなる。
他方、アイドルとしての私――みまは、きっと永遠にミキハル君の記憶に焼き付けられるだろう。
私は、長年のファンであるミキハル君の中で、アイドルとしてずっと生き続けたい。
我ながら、何と図々しいのだろう。
しかし、私は、そういう女なのだ。
私は、「ごめんね」と、ミキハル君に謝る。
「はあ!? 麻美、お前、自分の状況が分かってるのか!?」
ミキハル君は、私の気持ちも、私の言葉の真意も読み取れていない。
しかし、いずれ思い知ることとなるだろう。
私が、ミキハル君を含むファンに対して抱いている愛情が、あまりにも大きく、あまりにも重たいことを。
「どんな状況であれ、私はミキハル君のものにはなれない。ミキハル君のことは好き。感謝もしてる。でも、誰のものにもなれないの。だって、私は――」
「アイドルだから」と、私は言う。
私は、ミキハル君目掛けて、とびっきりのウインクをする。
このウインクとともに、みまはミキハル君の中で生き続けるのだ。
私は振り返り、窓を開ける。
死ぬのが怖くない、と言えば嘘になる。
しかし、アイドルのまま命を落とせることは、私にとって本望なのである。
どうせ人間いつか死ぬのであれば、私は、この美しい世界の中で死にたい。
そして、永遠にアイドルのままで居続けるのだ。
一つ心残りがあるとすれば、セゾンstationの姉妹ユニットとしてデビューすることが決まっている珠里である。
お披露目ライブくらいは見守りたかった。
とはいえ、珠里のことを心配しているわけではない。
珠里は必ずや立派なアイドルになるはずである。
だって――
珠里は、私の妹なのだから。
私は、珠里がステージに立つ姿を想像しながら、窓の外へ――飛んだ。




