効果は抜群
彼女が俺の側を通った際に、仄かに男物の香水の香りがした。じわりと嫌な考えが過ぎる。頭は気持ちが悪いほど冷えていた。
使用人からティーセットを受け取って、お茶を入れようとしてくれたが、今欲しいのはお茶ではなかった。腕を引っ張ると、そんなに強い力で引いたつもりはなかったのによろけて座り込む。
泣いた名残がある腫れた目が痛々しかった。なぜ、泣いたのか。なぜ、俺に頼ってくれないのか。
膝の上に乗った彼女からはやはり他の男の香りがした。他の男の前で泣いたのか?
脳内で何かが切れた音がした。
「好きな男でも出来たのか。そんなこと許すわけもない」
「君が誰を好きになろうが、関係ない」
「関係ないですって?」
彼女が怒っているのが目に入る。関係ないのだ。公爵の自分はこの婚約を撤回するつもりはない。
格下の侯爵家から婚約解消を申し込むことは出来ないし、よしんば出来たとしても方々から圧力を掛けることなどわけもない。
どんなに好き相手ができようが、泣いて懇願されようが無駄なものは無駄なのだ。
横暴? 勝手に言っていればいい。
逃すつもりはない。
口付けは何度もしたことがあるが、それ以上のことはしたことがない。優しくしたいと思っていた。出来るなら同じ気持ちになってもらいたい。真綿で包むように大切にして来たはずだった。それなのに土足で踏み荒らされた感じがして不快だった。
ソファに体を押し付ける。至近距離で見つめる。呼吸が浅く、体がこわばっているのもわかる。俺が怖いのだろうか。彼女が反射的に身を引こうとするので腕を掴んだ手に力が入る。
息遣いを感じる距離で、残り香がすると言うことはどこまで近付いたのだろうか。
抱き締められてキスをするところまで想像し、舌打ちが漏れた。びくりと肩が震えたのを見て、落ち着けと内心繰り返す。
これ以上怖がらせても仕方がない。
深呼吸をしても苛立ちは消えて無くならない。なぜ俺では駄目なのだろうか。白い首筋が目に入る。気が付いたら吸い寄せられていた。
しっとりとした肌に鼻が当たる。素肌から微かにした香りに、苛立ちが限界を超えた。彼女の息が止まる。
「いっ」
痛みの声が漏れて、少し我に帰った。噛んで赤みを帯びたところを痛そうに思い、舌でなぞる。びくりと体が震えたのは恐怖からではないように感じた。
体を離せば彼女は衝撃を受けた顔をしていた。反射的に噛まれた首を押さえる。耳まで真っ赤に染まっていた。ハクハクと唇が動くが、何も言葉にはならなかった。混乱して頭が働かないようで、目が潤んでいる。
恐怖や嫌悪感はなく、ただただ混乱を表す彼女に少し気分が浮上した。マイナスからゼロまでであるが。
これで嫌悪感だけなら止まらなかっただろう。
さて、彼女は誰に唆されているのか。
特に彼女に男が近づいているような報告は受けていない。生徒会の役員も仕事の関係であって、個人的な交流はないようだった。
彼女の様子がおかしくなってから調べたが、相手が浮上しない。
わからないからこそ、本気なのかもしれない。彼女が本気になれば情報統制くらい出来る能力があることは既に知っていた。
情報が掴めないなら本人に聞くしかない。
「誰に許した?」
どうにか冷静に努めようとしているが、声には怒りが反映してしまう。
涙を見せるなんて、どんな近しい相手なんだ。弱い部分を見せないようにする彼女だから、見せた相手が妬ましくて仕方ない。
目の下を親指でなぞる。瞬きが増え、まつ毛が当たった。少し湿っているように感じる。
「口も聞きたくないのか? 誰に身を預けたのか聞いているんだ」
「何を…」
「公爵家の婚約者に手を出すとは、余程命が惜しくないように見える」
困惑して目を白黒させている彼女が憎く思えて仕方ない。なぜ怒っているのか分からないと言わんばかりの様子は、自分の気持ちが一方通行だと酷く実感させられるようだった。
あの時の両思いになったと喜んだのが嘘のようだ。
「庇い立てしても容赦はしない。今なら君は許してやる」
今なら許せる、と思う。他の男のことを忘れて手元に戻って来てくれるなら何でもしてみせる。
怯えられていて少し嫌になっていた。
彼女のことがわからない。好きだからって相手が自分のことを好きになってくれるとは限らない。それでもこの気持ちは伝わっていると思っていたのに。
ローズみたいに好きだと、恋をしていると分かる表情で笑ってくれたなら、とそんなことを考えていれば、彼女の目から涙が溢れた。
一粒、二粒と落ちた雫は合わさって筋になる。
最初は信じられなくて瞠目したが、しゃくりあげる声に我に帰った。
慌てて涙を拭おうと思えば、無造作に腕で拭われて出した手の行き場を失った。
他の男の前で泣いたかもしれないと思った時はひどく嫉妬をしたが、いざ目の前で泣かれたらどうしたらいいか分からない。
茫然自失となって立ち竦んでいた。
突然ノックが響いた後、扉が開いた。全くノックの意味を成していない。
振り返って見れば入って来たのは彼女の弟だった。緩い調子で入って来たが、こちらを見て目を見開く。
自分達の様子を客観的に見たらひどい状況だろうとどこか冷静に判断している自分がいた。
泣いている女性と、ソファに馬乗りになって追い込んで泣かしている婚約者(男)は明らかに事案だろう。
レオナルドは彼女を背に隠して、俺を睨み上げる。初めて見る顔だった。
「何をしているんですか?」
低い声でウィルに唸っている。警戒を最大限に出した弟に、彼は先程までの怒りが削がれたようだった。
「ただ…話をしていただけだ」
「ただの会話で、姉が泣くわけないでしょう?」
「レオ」
「出て行ってください」
「レオナルド。大事な話をしているんだ」
「この調子で会話出来るわけないだろう。頭を冷やしてください」
彼女は弟の服の裾を握る。その手が震えているように見えた。レオナルドは振り返って声を掛けている。
すっぽり彼女の姿が弟に覆われて見えなくなる。いつの間にか随分と大きくなったと感じた。彼女が弟とは言え男に頼っている姿を見て嫉妬心が湧き上がるが、この状況は俺の自業自得だ。
震えた声で彼女が、日を改めるように願う。聞いたことないか弱い声だった。
名前を呼べば、こちらから見える手がびくりと震えたのがわかった。これは無理そうだ。レオの視線が痛くなる。
最終通告と言わんばかりの強い言葉に諦める。
未練がましく見ていたが、彼女が弟の陰から顔を見せることはなかった。




