おまじないの意味
詰めていた息を吐き出す。
「何があったの?」
「…わからない」
「座っていい?」
行儀が悪いのは百も承知だけど、膝を抱えて座る。隣に座った弟の肩に寄り掛かる。
「スイ姉さんが泣いてるところ初めて見た」
「そう?」
「うん」
昨日あり得ないくらい泣いたから、感覚がずれているが確かに私自身泣いたのは幼少期以来だと思う。それこそレオナルドが物心ついた後は泣いた覚えはない。
「レオは大きくなったね。頼もしかった」
レオはこちらを伺いつつ、ウィリアムのことを口に出す。
「……あの義兄さんがあれだけ怒るって珍しい。余裕ない姿も初めて見た」
「ごめんね、巻き込んで」
思い出して少し腕が震える。好きな人でも有無を言わさず押し付けられると恐ろしいってことを初めて知った。
「大丈夫だよ。義兄さんは好きだけど、俺は姉さんの味方だから」
私の弟が頼もし過ぎて全世界に自慢したくなって来た。一番に思い浮かんだのが、我が婚約者でしょっぱい気持ちになる。
レオは断りを入れて一旦立ち上がると私の部屋の奥まで進む。何をしているのかと思えば大きなテディーベアを持って帰って来た。
小さな頃にウィリアムに貰って不安な時はずっと抱き締めていたそれ。有名なオーダーメイド店の一点物。触り心地は最高に良い。首には私のイニシャルが刺繍されたリボンが巻いてある。耳にはお店のタグが付いている。
レオがずるい、俺も欲しいと言って喧嘩になったこともあったっけ。
そんな姉弟喧嘩をウィルと姉は困った顔で見ていたなあ。あの頃は婚約者ではなかったけど、家族絡みの付き合いがあった。
懐かしい思い出が蘇る。眩しくて優しい過去の記憶。
受け取って抱き締めてみれば、やっぱり落ち着く。何かが込み上げて来て、クマの肩口に顔を埋めた。
「レオ、このぬいぐるみ欲しいって泣いたわよね」
「忘れてよ。姉さんだって何かある度に抱き締めていたじゃないか」
「落ち着くのよね。こうしてると」
「これ、父さんとかのプレゼントだったの?」
私の幼い頃の誕生日プレゼントと言うことは弟はまだ物心つく前だったのだろう。
なぜこれをと思ったけど純粋に安定剤として持って来てくれたのか。
「ううん。これウィルからの誕生日プレゼント」
「え」
ハッとしてこちらを見るが首を振る。そこまで気を遣う必要はない。
レオはまた隣に腰をかけて、クマの頭を撫でる。気持ちいいのか無心で触っているのに少し笑えてくる。
何か気になったのかレオが少し近寄る。眉を顰めながら匂いを嗅いでいた。
「姉さん。誰かに抱き締められた?」
「何で?」
「男物の香水の香りがする。義兄さんの物とは違うよね」
「へ?」
「それであれだけ怒っていたのか」
「待って待って抱き締められたりはしてない!」
「じゃあ近づいたりした?」
あの馬鹿! おまじないってこういうことか。
そりゃ学園に泊まった婚約者から他の男の香水の香りがしてたら怒るわ。
浮気を疑っても仕方ない。最悪だ。
頭を抱える私に、レオは追求してくる。
「心当たりがあるんだろう?」
「ウィルとの関係が…上手くいってないと言ったらおまじないだって言われて香水を掛けられた」
「なるほどな。その相手ってスイ姉さんのこと狙ってるの?」
「それはない」
「断言できる?」
「ええ。それだけはあり得ない」
「じゃあ、義兄さんの背中を押したのか。その相手は…いや何でもない」
ブツブツと考え込んでいる弟を横目に見ながら再び顔を埋めた。ふわふわの心地が気持ちいい。慣れた香りに落ち着く。少し微睡かけて、ハッとする。
こんな状況で、と呆れてため息を吐かれる。昨日の睡眠不足が祟っているがそれは言い訳に過ぎない。
「姉さん昨日帰る予定だっただろう?」
「ええ」
「父さんが食事に義兄さんを呼んだんだよ」
なるほど。考えれば考えるほど悪手だった。
仕事を片付けてわざわざ来てくれたんだろう。最近すれ違っていたし、良い機会だと思ったに違いない。せっかく来たのに婚約者は学園に戻り、待っていればひどい嵐だ。
帰って来ないとは分かりつつも、心配しただろう。朝まで待ってやっと帰って来た婚約者は他の男の香りを纏っている。
(最悪だ)
申し訳なさ過ぎて自己嫌悪に陥る。
義兄さんが可哀想だ、と言われて返す言葉もない。
「まあそれでも力づくは良くないとは思うよ」
手を取られた。強く掴まれていたようで腕に跡がついている。痛みは?と尋ねられて、じわじわと痛むことに気付いた。
「襲われたら泣いても仕方ないよな」
「え」
襲われたということを否定しようとして、止まる。呆然としてたから気付かなかったが、もしや襲われかけていたのか。
「嫉妬で箍が外れたんだとは思うけど」
「嫉妬?」
思い掛けない言葉に繰り返せば、弟は何を今更と気にも留めない。
「好きな女性に他の男の影が見えたら嫉妬するに決まっているだろう」
「…ウィルは私のこと別に好きじゃないでしょう?」
レオは呆気に取られる。それ本当に言ってると問われて頷けば自身の髪をごちゃごちゃと掻き混ぜる。
「そこからかあ……本気で義兄さんには同情する。姉さんは義兄さんと一度よく話し合った方がいい」
「それは…わかってる」
重いため息を吐き出した後、彼はそう言えばと話を変えた。私の部屋に来た本題だろう。
「ローズ姉様が部屋に閉じこもってるんだけど何か知ってる?」
反応しそうになって咄嗟に堪える。弟が私を見ていなかったから、何とか怪しまれずにすみそうだ。
「……心当たりはないけど、何かあったの?」
「わからないんだ。閉じこもって出て来ないみたいで」
「…そう」
姉と顔を合わせるのはまだ気まずい。どんな顔をしたらいいのか分からない。閉じこもっていると聞いて少し安心してしまったのは妹としてよくないことだとは思う。
あれから顔を見合わせていないからよくわからない。




