おまじないの効果
昨日無我夢中で駆けてもらった愛馬を労わる。あの嵐の中慣れない場所に預けてしまった。
頬を撫でれば擦り寄ってくる。可愛いなあ本当に。帰ったら心を込めてブラッシングしよう。
家には手紙を出したので、そろそろ届いているだろう。散々吐き出したからもう切り替えは出来た。
家までお願いね、そう伝えれば元気そうに駆け出した。学園を出るまでゆっくり歩いてたら、生徒たちに二度見された。手を振ってみればキャーキャー言っている子たちもいたから、大丈夫だとは思うが来週噂になっていそうだ。
昨日の余裕ない姿見られていたらどうしよう。
家の扉が開いたら、仁王立ちでこちらを見据える婚約者がいた。傍にお茶セットが置いてある。使用人が彼に気を遣いながら通り過ぎて行った。彼らが驚いていないということは周知されているのかしら。
いつから待っていたんだろう。まさか、伝令が届いてからずっと…?
足が止まった私を機嫌悪そうに見遣る。そりゃ待っていたのは私よね。
休む暇もなさそうだ。
深呼吸をして、顔を見上げる。もやもやは吐き出したおかげで少し落ち着いていた。冷静に話せそうだ。というか、逆にイライラしてきた。何で私が悲しまないといけないのだろうか。
彼に顎で自分の部屋についてこい、と動かす。どこか遠くで戦いのゴングが轟いた気がした。
彼の隣を通り過ぎる。その時に目を見開いたのに気付かなかった。
部屋に通して、お茶のセットを侍女から受け取る。私たちの間に流れる不穏な空気を察しているのだろう。大丈夫ですか、と小さな声で聞かれる。心配そうな視線に首を振った。
何かあったら私の骨を拾ってほしい。そんな阿呆なことを考えながら部屋の扉が閉まるのを見届けた。
「随分と遅かったな」
低く硬い声が背中に掛かる。振り向きづらいがそう言うわけにはいかない。逃げるのは負けだ。負けず嫌いの血が騒ぐ。
「待ってらっしゃったんですか」
腕組みしながらこちらを見据えていた。沈黙が続く。ソファの前のローテーブルにティーセットを置いて、お茶を淹れようとしたら手を掴まれた。腕を引っ張られて乗り掛かるように座り込む。
「最近俺のこと、避けてるだろう?」
直球過ぎて返答に迷う。距離は30センチを切っている。なんて答えたものかと思案していたら肯定に捉えられたようだ。
表情が強張り、目のハイライトが消えたように見える。
「……他に好きな男でもできたか」
私に問いかけたと言うよりも零れ落ちたようだった。驚きで思わず身を引こうとして、背中に回った腕に引き留められる。
逃げるのは許さないと言わんばかりの力に性差を感じた。決め付けられたことにイラっときたが、私が見えていないようだった。とりあえず冷静になろうと深呼吸する。
「君が誰を好きになろうが、関係ない」
せっかく深呼吸したのに冷静になれなかった。いや、冷静に自分の理性を手放していいと判断した。彼は丁寧に私の地雷を踏んだんだ。よし、私怒っていいわよね。
「関係ないですって?」
「ああ」
「随分と横暴じゃない?」
「そう言われても仕方ないが、逃すつもりはないよ」
ソファの背凭れに体が押し付けられる。相手の息遣いまで感じられる距離にいた。握られた腕は力が入っていて痛い。
無表情のせいで何を考えているのかわからない。押し返したいがびくともしない。
今までかなり優しく扱われていたことに気付いた。さすがに恐ろしくなってきて、怒りも鎮火してしまう。怯えているのに気付いたのか、舌打ちされる。びくりと肩が震えた。
視線が逸される。少し威圧感が薄れ、息ができた。無意識に呼吸を止めていたらしい。深呼吸を繰り返していれば、彼は距離を詰めた。元々空いている距離はそれほどない。私の肩あたりに彼の顔が埋まる。
「ひゃあ」
変な声が漏れた。慌てて口塞ぐ。髪が首筋に当たって擽ったい。自分の心臓の鼓動が聞こえて来そうだ。息を潜めて彼の動きを窺っていれば、首に痛みが走った。
「いっ」
噛みつかれたことに気付いたのは彼の顔が離れてからだった。思わず痛みが走った場所を抑える。唾液なのか濡れていた。ご乱心かと思い見上げてハッとする。ふざけられなかったのは、目が据わっていたからだ。
「誰に許した?」
怒りを露わにした声に身が硬くなる。意味が分からない。目の下を指でなぞられた。泣いた後ケアはしたがこの距離だと誤魔化せない。泣いていたことは丸分かりだろう。
「口も聞きたくないのか? 誰に身を預けたのか聞いているんだ」
「何を…」
「公爵家の婚約者に手を出すとは、余程命が惜しくないように見える」
浮気を疑われているのか? 公爵家の面子に関わるから怒っているの? 心当たりはない。 心当たりがあるのはむしろそっちの方だろうに。
「庇い立てしても容赦はしない。今なら君は許してやる」
もう訳がわからない。絶対零度の視線で許すと言われても信じられる訳がない。目を白黒していれば、今度こそ彼は私の地雷を踏み抜いた。
「君が何考えているのかわからない。ローズだったら」
姉の名前を出されて肩が震える。1番聞きたくない人から1番聞きたくない名前が出た。
視界が霞む。ポタリと涙が落ちるのがわかった。いつもなら泣きはしない。散々泣いたせいで涙腺が馬鹿になっていた。
微かに息を呑んだことは分かったが、相手を窺う余裕なんてない。雑に涙を拭う。
ノックの後、扉が開いた。
この容赦のない訪問はきっと弟のもの。
いつもノックの後返事を聞くように言っているだが中々治らない。その習慣に感謝することになるとは思わなかった。
緩い調子で入って来た彼は、私と婚約者を見て瞠目した。泣き腫らしている姉と、ソファに馬乗りになって追い込んで泣かしている婚約者(男)は明らかに事案だろう。
いつもは婚約者の肩を持つレオナルドだが、ウィリアムを引き剥がし私を背に隠した。いつの間にか大きくなった背中に驚く。
「何をしているんですか?」
低い声でウィルに唸っている。警戒を最大限に出した弟に、彼は先程までの怒りが削がれたようだった。
「ただ…話をしていただけだ」
「ただの会話で、姉が泣くわけないでしょう?」
「レオ」
「出て行ってください」
「レオナルド。大事な話をしているんだ」
「この調子で会話出来るわけないだろう。頭を冷やしてください」
弟の服の裾を握る。それに気付いたレオナルドは振り返って優しく笑う。いつの間にか随分と頼もしくなっている。背中に頭を付ける。顔を見られたくなかった。そのまま声を出す。泣いて掠れた声は震えていて自分の物だとは思えなかった。
「ウィルさま。今は冷静に話が出来そうにありません。また…日を改めてもらえませんか?」
「スイレン」
名前を呼ばれて一瞬肩が揺れる。くっ付いている弟には伝わってしまっただろう。裾を掴む手を握られた。
「義兄さん、もうこれ以上言うつもりはない」
「…また来る」
「お気を付けて」
背中に声を投げかけたけど顔は上げられなかった。視線を感じたが、諦めたのか部屋から出て行った。




