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現実と理想

「今日は帰るんだろう?」

「…ええ。週末だし、お父さまは既に帰宅しているはずなのでさすがにこれ以上は…」

「大丈夫か…?」

「大丈夫だと思います?」


渋い表情しか出来ない。朝から慌ててホットタオルを目元に当てていたから少しはマシになってきているが、まだ見る人が見ればわかるだろう。

妖怪だと指を刺された時はそのまま折ってやろうかと思ったものだ。

レディーに対してなんて物言い。



目を瞑ってくれ、と言われて訝しみながらもその通りにする。胸辺りに何かをシュッと掛けられた。冷たい。思わず目を開ければ、瓶を手に持っていた。


「いきなり何を、って。香水、ですか?」

「ああ。これはおまじないだ」

「おまじない?」

「きっと上手くいくはず」


首辺りを手で擦って匂いを嗅ぐ。嫌いな香りではないが、慣れない香りに違和感がある。


そもそもおまじないって一体。


聞きたいが教えてくれそうにない。言われた通り目を瞑るなんて不用心だと苦言を呈される始末。私だって人は選ぶ。



「もし、どうにもならなくなったら学園に戻っておいで。逃げ場所があるって思えば立ち向かえるだろう?」


穏やかな声で言われれば少し落ち着いてくる。


「あと、これだけ言わせてもらうなら、あり得ないと思う。

初恋にあれだけ舞い上がった愚かな男の言葉で悪いけど、ウィリアムはしっかり君のことを愛していたよ。

あの生真面目な男が、仮にローズに恋をしたとしても、君との関係をそのままにしたままにするとは思えない。


君は君が知っているウィリアムを信じるべきだよ」


「あなた年長者らしいこと言えたんですね?」

「うるさいよ。


まあもし彼が君を振るなんてことがあれば俺が社会的に抹殺してやるから。心配しないで」


「心配しかないわ」

「いざとなったら弟をやるから」

「いや、だから揉め事はごめんですって」

「俺が良いって? 申し訳ないが心に決めた人がいるんだ」

「そんなこと言ってないです。

でも……ありがとうございます」


感謝をする時は目を見て気持ちを込めて、そう躾けられてきたからきちんと目を見て微笑んだ。


「やっと笑った」


そう言った彼は、思わず見惚れるくらい優しい顔をしていた。顔がいいって恐ろしい。うっかり胸がキュンときた。


見惚れるとかない。ときめくとかもっとない。不覚だ。不覚すぎる。思い出せ。

こいつは姉を傷付けた浮気クズ野郎だ。

弱っているとは言え、ここで落ちたら泥沼だ。


戒めで自身の頬をビンタする。ポカンとする殿下を尻目に深呼吸を繰り返した。彼を据わった目で見つめる。


(うん。ない。大丈夫)



「女として忠告させてもらいますが、婚約者との仲がうまく行かないって相談してくる女は大体相手に下心があるから気を付けてくださいね」

「お前が言うか」


何の気なしに出した言葉が後で殿下の役に立つとはこの時は知る由もない。


「何で…あなたは本当にあんなことしでかしたんでしょうね」

「しみじみ言わないでくれ。現実を知っただけだ」







彼女がいなくなった部屋は静寂で満ちていた。静けさが戻った部屋に少し違和感を感じる。

それが普通だったはずなのに。


男は影に話し掛けた。


「この内容どう思う?」

「令嬢の勘違いではないでしょうね」

「…やはりそうだよな」


「かなり綿密に計算されているようですし、昨日今日の問題ではなさそうです」

「もしかしたら去年から…」

「その可能性は否定できません」


頭を抱えたくなる。いつからの計画かどうかさえもわからないとは。


「あの令嬢は、女にしておくにはもったいないですね」

「ああ、侯爵も言っているが秘蔵っ子だからな」

「……王妃に相応しいんじゃないですか?」

「珍しいな…お前がそこまで介入するなんて」


いつも黙って指示に従う男の質問に驚く。


「彼女を部下にするつもりでしょう?」


男の顔を見せた、とはつまりそういうことだ。下手したら王妃でもその男の顔を見ることはない。見たら最後という噂は伊達ではない。


「…能力的に言ったらピカイチだが、あいつは自由に動けない王妃よりも、外交官や補佐官の方が能力を発揮するだろう」

「まあ、そうかもしれませんが。令嬢にそれはこの国の制度的には無理がありましょう」


女性の官僚が増えてきているとはいえ、高官にはいない。結婚、出産を考えると出世は厳しい。

下級貴族はまだしも上流階級の貴族の女性で官僚になるものはいなかった。

騎士や王妃付きの侍女なら例はあるにはある。

そもそも貴族女性の労働は好ましくは思われない。領内ならまだしも、王宮ではほとんど認められなかった。


「部下としてはこれ以上なく頼もしいが、プライベートは嫌だ。目を合わせれば何を望んでいるか把握されるんだぞ。隠し事も出来ない。……お互いに地獄だろう」


嫌な顔をして見せれば、贅沢者とぼそりと溢された。先程の彼女と言い、俺のことを何だと思っているんだこいつらは。まあいい。


「あの子を万が一貰い受けるとしたら側妃だな。

そうすれば柵が強く自由な時間がない正妃とは違って自由に動ける。協力者として動いてもらって、報酬を渡す。そう言う使い道が一番合っている」

「それは現実的ではありません」

「そうだな。元宰相の娘を側妃になんて隣国の皇女でも貰わなければ叶わないが、今の情勢的にそれはない。ウィリアムや宰相を敵に回してまですることでもないしな」


いっそあいつはそこまで反対しない気もするが、現実的ではないことに変わりはない。


「彼女に不足はあるか?」

「いいえ。……ただ惜しまれますね」


続きを視線で促せば、彼は無表情で告げる。


「騎士学校に入学していればいずれ私の部下になっていたでしょうから」


意外と評価されていることに驚く。部下に鬼呼ばわりされている彼がそんなことを言うなんて。


「うちの新人が彼女に気配を悟られたんです。最初は偶然だと思っていたんですが、事実だったんで何度修行のやり直しさせたことか」


なるほどな。ローズと婚約中は彼女にも王家の影が付いていた。護衛対象者に気付かれるなど合ってはならないことだろう。




「ウィリアムの一件はどうなんだ?」

「結論から申し上げれば令嬢の勘違いです」


男の言葉に安堵の息を漏らす。彼女の勘違いか。


「やはり」

「ただ、彼女が言った状況は全て真実です」

「は?」


調べ上げるように指示した内容を聞けば彼は調査結果を簡潔に述べる。


「それに好きだと言われたことがないと言うのもおそらく本当のことでしょう」

「……ヘタレなのか?」

「あくまでも私の推測ですが」

「構わない」


「あなたでもあの男爵令嬢に置き換えれば気持ちはわかると思います。あなたは身分を明かす前に好きだと伝えましたね。何故でしょう?」

「…王子だと言ってしまえば彼女の本当の気持ちが分からないから。………ああ、そうか」


「そういうことです。身分が上の男から好きだと言われれば大概は同じ言葉を返します。それが女の処世術であり、受けてきた教育ですから。

彼女の意思とは関係なく好きと言われることは目に見えていたから、自分からは言えなかったのでしょう。

まあヘタレには変わりないです。さっきのあれは良い刺激になると思いますよ」

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