転機
婚約者と主人公の視点が入ります。
養蚕業は予約発注の形をとり、ハンカチやスカーフに関しては順調に出荷できている。
複雑な織り目の商品も後に販売する予定になっている。パジャマやドレスなどは追々、工場化が進んだ暁に売り出していく。
工場の設備投資を踏まえても利益が見込めるくらいにはなりそうだった。
工場の箱はほぼ完成しており、働く従業員の募集も進んでいる。都市に流れていた若者も、応募していると聞いている。
何度も氾濫する川に悩まされて来た土地は、養蚕業の収入で河川の工事の目処が立った。
費用の面でも難点はあったが、それ以上に河川の形状が特殊で普通の堤防建設の基準に満たしていなかったこともあり何年も見送られて来ていた。
彼女が学園の地理の教授に、地図と実際の状況、被害の規模の推移を説明したところ専門家を派遣してくれた。
通常の堤防だと作っても意味をなさないが、場所ごとに遊水池を作ったり、河川を掘削して水位を下げたりすることで被害を減らせるという報告が上がった。専門家と更に話を詰めて、来年の洪水の時期までには終わらせることが出来そうだった。
まだ成功とまではいかないが、手始めとしては及第点だろう。
彼女のおかげだ。
あれから他のシルクのドレスを披露して、広告塔の役割を果たしていた。
ハンカチの一件はかなり噂になったようで、学園でもハンカチのセールスは好調らしい。
彼女が進めるというよりも、友情の証と持て囃されていると苦笑していた。
あの子爵令嬢とは交流が続き、デビュタントを終えている彼女から社交界の情報を仕入れているようだ。
領地には他にもいくつか早期の対策を求められる地域があり、色々と走り回っている。
今まで後を継ぐまでに他領や分家などとの争いに集中していて、領内のことが疎かになっていた。
彼女の領地を見回りたいという提案は非常に理にかなっていた。
その地を治める者たちの話を聞くことは俺の仕事だが、それ以外の者は気後れして言えないことも多い。
その時には彼女の物腰の柔らかさと行動力にかなり救われた。貴族として威張り散らすことなく、相手の視点に立って考える姿勢は民衆の心を動かす。
若い領主の嫁はどんなものかと品定めしていた者たちも早々に絆されていた。
絶対に手放すなと念を押されて、当たり前だと断言しつつも呆れてしまう。相変わらず人誑しなやつだ。
こんなにも得難い人はいないのだから。
彼女の人気が高まると周囲に嫉妬もするが、同じくらい嬉しくなる。彼女の特別が自分だとわかっているから。
俺が視界に入ると、頬を高揚させて嬉しそうに笑う。まさに花開いたような笑みだ。
これが向けられるのは自分だけだった。
「ウィルさま」
「ウィルでいいと言った」
うっ、と言葉に詰まる。視線を逸らすと一歩距離を詰められた。圧が強い。呼びたくないわけじゃないのよ。ただ。
「昔は呼んでただろう? それに夜会でも何度も呼んだ」
無邪気に呼んでいた頃を引き合いに出さないでほしい。年上っていうのも勿論あるけど、何より「…恥ずかしいんだもの」。名前を呼ぶだけで照れくさいって、自分らしくなくてもどかしくなる。
近くで息を呑む音がした。あれ、待って今声に出てた? バッと顔を上げると驚いた顔と目が合う。自分の口を押さえて顔ごと逸らした。そんなに凝視しないでほしい。
「待って、待って、今のなし。つい出ちゃっただけなの」
顔が熱い。きっと真っ赤になっていることだろう。焦って変なこと言ってる気がする。
「スイレン」
顔が見られない。優しい声で名前を呼ばれる。何度も呼ばれて、どうしようもない気持ちが募っていく。胸が苦しい。あー、もうっと思って投げやりに顔を上げた。
とても愛おしそうな柔らかい笑みに息が止まった。目がそらせない。顔を赤く染めている癖に、何それ。久しく笑顔なんか見せていなかったのに。鉄仮面がデフォルトで氷の貴公子とか陰で言われている癖に。
好きだと訴える目に、唇が震える。愛しさが溢れて、どうしようもなかった。
視界がぼやける。目から涙が落ちていく。悲しい訳じゃないのに意味がわからない。感情が爆発して、自分では制御できなかった。
腰に腕が回る。引き寄せられて、反対の手で涙を拭われた。しょうがないと言わんばかりの表情で、背中が摩られる。
あの時は確かに思いが通じ合っていた。お互いがお互いのことを愛しく思い、熱い気持ちを抱えていた。
ウィリアムは後に思う。あの時に完全に自分の物にしておけばよかった、と。まだ未成年だからと、幼い彼女を大切にしたいと大人の判断をした。それが悔やまれる。
そうしておけば無理にでも繋ぎ止めていられたのに。




