忘れてたわけじゃ……多分ないと思うわ。
もしや、奈々子の身に何かあったのではないだろうか。
いつもの作業をしながらも美咲は気が気でなかった。
「ねぇ、美咲。玄関回りのお掃除は終わったわよ。あとは何をすればいいの?」
ビアンカが傍にやってきた。
金髪碧眼の彼女が和服を着ていると、何とも言えない不思議な魅力がある。
「ありがとう。そうねぇ……」
まだ終わっていないところがあっただろうか、と考えていたら、
「ねぇ、それよりも賢司の様子はどう? 具合悪いんでしょ」
ギクっ。
実は今の今まですっかり忘れていた。今朝は普通の様子に見えたからだ。
そう言われたら急に心配になってきてしまう。
「様子、見てきたら?」
美咲はビアンカに礼を言って、実家に戻った。
二階の客間に上がると、部屋のドアが半開きで灯りが漏れていた。
「……賢司さん?」
中に入り、美咲は息を呑んだ。
賢司が床の上に蹲って荒い呼吸をしている。急いで駆け寄った。
「どうしたの?! 今、救急車を……!!」
「……なんでもない、すぐに治まるから」
「バカ言わないで、お医者様を呼ぶわ!」
立ち上がりかけた美咲の手を彼は掴んだ。
額に汗を浮かべながら、それでも彼は言う。
「ダメだ……絶対に、救急車も医者も呼ぶな」
「どうしてそんなことを言うの? もし何か大きな病気だったらどうするの?!」
実はずっと気になっていた。
病院に行ったのに、はっきりしない病気。もしかして……。
すると賢司は片頬を歪めるような笑い方をした。
「僕が死ねば君は自由だ、そう考えているんだろう?」
「……!」
美咲は思わず手を上げそうになって辛うじて堪えた。
「見損なわないで! 目の前に苦しんでいる人がいるのに、自分のことなんて考える訳ないでしょ?! とにかく、お医者様を……」
そうは言っても、この島で唯一の医師は既に休みに入ってしまった。
携帯電話を取り出し救急車を呼ぼうとすると、
「頼むから……このまま大人しく休んでいるから」
縋るような目で見つめられ、美咲は思わず手を止めた。
それから賢司の額に触れる。熱はないようだ。
美咲は布団を敷いた。
「……明日もこの調子なら、本土の救急病院に連れて行くわよ?」
夫が横になったのを見届けてから、美咲は立ち上がりかけた。
「仕事に戻るの?」
「ええ。それに私がいない方が気楽なんじゃない?」
そう長い間、仕事から抜ける訳にはいかない。
「行かないで……」
空耳かと思った。
しかし、振り返ると賢司がこちらに手を伸ばしている。
「傍についてて、一人にしないで」
今度ははっきりとそう聞こえた。
美咲は驚きと戸惑いで、どうしたらいいのか判断がつかなかった。
本気なのか、仕事の邪魔をして楽しんでいるのかわからない。着物の袖を掴まれる。
美咲が座り直すと、彼は手をつかんできた。
指と指を絡ませるような握り方。
賢司の視線はじっと天井に注がれていた。
「子供の頃……」
賢司はぽつり、と語りだした。「僕がどんなに高い熱を出して苦しんでいても……僕を
産んだあの女は、看病なんかしてくれなかった。大事な仕事があるって、大切な客が来るパーティーだの、買い物だのって、自分の予定ばかり優先させていた」
驚いた。
賢司が自分の母親について話すのを初めて聞いた。でも彼は母とは言わない。
『僕を産んだあの女』という言い方に、彼の母親に対する感情を垣間見た。
「父は優しかったよ。ちゃんと僕のことを、息子として可愛がってくれた……周が、家にやってくるまではね」
「……」
「僕は、父の気持ちが知りたい。どうしてあの日から急に……」
「賢司さん……?」
美咲は持っていたタオルで賢司の額の汗をぬぐって言った。
「大丈夫よ、私は傍についているから。でもお願い。周君を恨まないで……」
この人はもしかしたらずっと、孤独を感じて生きてきたのではないだろうか。
ふと、そんなふうに思った。
「私の弟だけど、あなたの弟でもあるじゃない」
賢司は何も返事をしなかった。




