5、傍に
井坂拓海視点です。
「顔死んでるけど大丈夫か?」
半分飛んでた意識が声をかけられたことによって戻り、俺は頭を軽く振ってから声の主に目を向ける。
そこには辞典のように太い本を何冊も抱えた先輩がいて、俺はレポートを書いていた途中だったことを思い出した。
「あー…、はい。今ちょっと意識飛んでました…。」
「だよな。口半開きだったし、イケメンが台無しになってたぞ?」
黒縁メガネをかけているインテリ風な都築先輩は、片眉を上げながら軽く笑う。
俺は真っ白なレポートに目を落とすと薄く笑みを浮かべて、心の中では大きくため息をつく。
「なに?なんか悩み事でもあんの?」
「や、特には…。」
「そんなわけないだろ。目の下のクマすごいし、寝られないほど悩んでることあるんじゃねぇの?」
指摘されて目の下に手をやると少し視界が霞んで何度か瞬きする。
「お前が元気ないと教授も気にするからさ、ちょっと話してみろよ。話すと案外楽になれるもんだぞ?」
先輩も研究レポートを書くようで、俺の斜め前に持っていた本の山を下ろすとペンを手に腰を落ち着けた。
その様子からレポートのついでなんだと察して、今まで堪えていた愚痴が口から漏れる。
「悩み…ってもんでもないんですけど…。最近…寂しくて…。」
「寂しい?なに、今になってホームシック?」
「いや、ホームシックとかじゃなくて…。その…彼女…のことで。」
「あー!例の遠距離彼女か。星形が言ってたな。GWにこっち来てたんだろ?」
「あ、はい。」
「まさかその彼女がいないから寝られないとかじゃねぇよな?」
「……その、まさかなんですよね。」
俺が正直に愚痴ると、先輩はレポートを書く手を止めてこっちに顔を向けてくる。
俺は今まで抱え込んでいた気持ちを少しずつ吐き出す。
「ここんとこ毎日なんですけど、寝てるときに身体が冷えるっていうか…。そわそわして安心して寝られないんですよね…。一人で寝てると違和感しかなくて…。」
「おい、さらっと惚気るんじゃねぇ。何が一人で寝てると違和感だ。それが普通だっつの!」
「普通…。普通だったはずなんだけどなぁ…。」
俺は重い頭を両手で支えて机に肘をつくと、前から「贅沢な悩みだなぁ。」と先輩のぼやく声が耳に届く。
詩織が向こうに帰ってからのこの一カ月、俺は毎晩寂しさに目を瞑るように寝るようにしていた。
実際は目を閉じてるだけでほとんど寝られてないのだけど。
朝になって目を開けて、隣に誰もいないことに気分が沈む。
自分以外の温もりのない布団に異様な冷たさを感じる。
詩織と過ごした5日間がどれだけ特別だったのか、俺は今になって死ぬほど痛感していた。
詩織に触りてぇ…
俺は自分の掌を見つめてからギュッと拳を作る。
「そんなに夜寝られないなら相手してあげてもいいわよ?」
上から声がかかり振り返ると星形先輩が俺を見下ろしていた。
星形先輩は流麗な笑みを浮かべると俺の隣に腰を下ろしてくる。
「私も最近寂しくてさ。井坂君なら大歓迎だけど、どう?」
「あー、それは大丈夫です。余計寝られないと思うんで。」
寝不足で頭が重かったのもあって遠慮なく断ると、座ったばかりの星形先輩がバンッと机を叩いて立ち上がった。
「そう。じゃあ、そのまま苦しんでればいんじゃない。ご愁傷さま。」
星形先輩はそう言い残すとどこかへ行ってくれたようで、俺はこめかみを押さえてほっと息をつく。
「おい、お前星形のプライドへし折ったな。あいつ誰にも誘い断られたことねーから、今頃すげー怒ってると思うぞ?」
「別に怒らせとけばいいんじゃないですか。変な誘い吹っ掛けてくる星形先輩が悪いんで。」
都築先輩は半目で俺をじとっと見つめてくると、大きくため息をついた。
「お前さ、ほんっと空気読むとか相手に気遣うとかしないよな?そういうとこ直した方がいいぞ?」
「どうでもいい人に気遣うとか疲れるじゃないですか。大体あーいう誘い大嫌いなんで腹立つんですよね。」
「ふーん、俺だったら大歓迎だけどな。星形ぐらい美人だったら尚更。」
「それは先輩に彼女がいないからでしょ。」
「おい、俺に気を使え。お前には人を思いやる気持ちが欠けてる。」
先輩の苦情を軽く笑って流すと本格的に瞼が重くなってきたので、レポートを切り上げることにして机の上を片付け始める。
「どうした、帰るのか?」
「はい、家帰って寝ます。さすがに寝ないとヤバい感じなんで。」
「だろうな。帰り道気をつけろよー。」
こんな自己中な俺を気遣う先輩に軽く頭を下げて研究室を出ると、まっすぐ家に向かう。
その道中何度か意識が飛びかけるのを堪えてなんとか家に辿りつくと、ベッドに倒れ込んでそのまま何日かぶりの深い眠りに落ちたのだった。
***
ヴーヴーヴー
小さなバイブの音が聴こえて、俺は薄く目を開けた。
部屋の中は真っ暗で俺は手探りでケータイを探す。
そうしてベッド下の鞄の傍で鳴るケータイを見つけると、半目のまま誰からかも確認せず出る。
「はい。」
『あ、やっと出た。俺、寺崎だけど。』
「ん?寺崎?」
俺は寺崎の名前に少しずつ寝惚けていた頭に血が巡る。
『今、詩織と飲みに来てたんだけど、詩織酒に弱かったみたいでさ…。なんか変になったあと寝ちまって、俺ん家に連れて帰ろうかと思ってんだけど。一応井坂君の耳には入れとこうと思ってさ…いいよな?』
詩織、酒、寝て――――寺崎の家!?!?
俺はここで覚醒するとベッドから飛び起きた。
「は!?!?家って何する気だよ!!」
『話聞いてたか?詩織、爆睡してんだよ。想像してるようなことできるわけねーだろ。』
「そっ!!だからって朝まで一緒とか絶対ダメだ!!!」
『そんなこと言われても…詩織の家に送っていったら俺が帰る電車なくなるしさ。俺、明日朝から講義出ないとダメだからさ~。』
寺崎は色々理由を並べ立てていたけど、俺はどうしても寺崎と詩織が二人で寝るというのが死ぬほど嫌で、反射的に鞄を掴むと家から飛び出して駅に向かって走った。
「今から行くからお前の家教えろ!!」
『は?今からって…もうすぐ21時だけど。電車あんの?』
「新幹線21時過ぎまであったはずだから、とりあえず行けるとこまで行くから!!場所言えって!!」
俺は気だけが焦って声が荒くなる。
寺崎はしぶしぶ自分の家の場所を教えてくると、詳しい場所はメールで送ってくれるということでまとまった。
そして一旦電話を切ると、俺は新幹線があることを願って走り続けたのだった。
***
本当に死ぬと思うぐらい全力で走り続けたおかげで、なんとか最終の新幹線に乗れた。
そうして日付が変わるかという時間に寺崎の家の最寄の駅に到着して、大きく安堵の息を吐き出す。
危ねぇ…
あと一歩遅かったら着いてねぇ…
俺はすっからかんになった財布を見て冷汗が背を伝う。
とりあえず詩織だ
金は明日コンビニで下ろせばなんとかなるだろ
寺崎の家を探すべく暗い住宅街をフラフラ歩いていたら、それっぽい学生マンションを発見してメールの住所と照らし合わせる。
そうしてここだと分かると三階の寺崎の部屋へ足早に向かった。
寺崎の部屋は305なので、その扉の前まで来ると焦る気持ちのままインターホンを何回も鳴らした。
「何回押すんだよ!うるせーっつーの!」
顔を歪めた寺崎の顔が扉が開くのと共に見えて、俺は「邪魔するぞ。」と一声かけて中に割り込む。
部屋に入ると奥に寝かされてる詩織の姿がすぐに見えて、俺は駆け寄ると詩織の傍に腰を下ろした。
詩織は窓際の布団に寝かされて穏やかな表情で眠っていた。
服装に乱れもなさそうだし、見る限り大丈夫そうだと判断して気が抜ける。
良かった…
俺は安心感から大きなため息をついてその場に項垂れた。
「そこまで心配しなくても何もしねーっつーのに。終電で東京から来るとかバカじゃねぇの?」
後ろから寺崎のバカにしたような声がかかって、俺は顔だけで振り返った。
「悪いけど井坂君の分の布団はねぇから。俺は明日も早いから寝るぞ。」
寺崎はそれだけ言うと部屋の電気を消して近くのベッドに潜り込んだ。
俺はそんな寺崎に身体ごと向き直ると頭を下げた。
「悪い、こんな夜中に。明日ちゃんと詩織と一緒に帰るから。」
「当然だろ。明日7時には起こすから、井坂君もちゃんと寝とけよな。」
「あぁ。本当にありがとう。」
俺が珍しく礼を口にすると寺崎はそこから黙ってしまって、寝たことを察した。
静かになった室内に定期的な寝息だけが聴こえ、俺は詩織に目を戻すとその顔に手を触れる。
指先から伝わる詩織の体温に無性に胸が熱くなっていく。
寂しかった気持ちが消え、求めていたものが触れられるほど近くにある現実に充実感でいっぱいになる。
詩織の傍にいる
ただそれだけのことがこんなにも自分の安定材料になるなんて、あまりにも単純な自分に笑ってしまいそうだった。




