1.4.疑念の渦中
その邸宅は王族用ということで、転移・転送の魔術を防ぐための最高級の紋様が建材に施されていた。
外見からはうかがえないが、物理的にも魔術的にも、堅固な造りになっているという。
更に地下室があるので、そこを使用することで、安全性がより高まるということらしい。
地下室は食料などの備蓄倉庫になっていたが、それでも5人が入って会話をするには十分なスペースがある。
その上室内用のガス灯が設置されており、護衛の魔術師が操作して点火すると、室内が明るく照らされた。
護衛の魔術師は1人がファリーハの側。
もう1人が入り口に立って、警護を続けている。
鎧の着装解除を許可されて、ディゼムとアケウはようやく全身を空気に晒すことができた。
2人はしゃがみ込み、うめいた。
「ふー……やっぱ開放感あるな……」
「そうだね……さほど窮屈ではなかったとはいえ」
黒い鎧と白い鎧は独立して人型に戻り、直立不動の状態でたたずんでいた。
眼光が点滅して、それぞれに言葉を発する。
『それでは、改めて説明を。ファリーハ』
『我々が従事するという、旧世界奪還計画とやらについてな』
「では4人とも、そのあたりの椅子に腰かけて、楽に聞いてください」
4人とは、護衛の魔術師を除いたディゼム、アケウ、2領の鎧を指しているようだった。
『我々の重量では椅子を破壊する危険がありますので、このままで結構です』
『続けてくれ』
「では……」
ディゼムは椅子を引っ張り出しつつ、アケウはたたずんだまま、説明が始まった。
「旧世界奪還計画は、本来もっと時間に余裕を持ったものでした。異世界からの救世主の召喚に成功したなら、それを中心とした戦力を編成し、旧世界奪還に出撃する。あるいは、数年に渡って召喚を繰り返し、更に戦力を拡充するということも考えられますが……今のところは、旧インヘリト王国の領土回復。願わくば、悪魔たちが人類に害をなせないようにすることを目的としていました。
しかし、現在の王国の置かれた状況は変わってしまいました。昨日の魔王――旧世界を滅ぼしたという悪魔の首領らしき存在が、この国にやってきた。本来なら島の外は海軍が、島の中は陸軍が守っているにもかかわらず、です。150年の間に整えた防衛網は、全て無意味だったと言ってもいいでしょう」
ディゼムたちにも思い当たることだった。
警備にあたっていた陸軍は魔王の襲来を予期することすらできず、大聖堂への直接の侵入を許している。
こうして王女と共にいる彼らは知らないことだったが、陸軍では警備が全く無意味だった点が問題視されていた。
「その上、昨日の戦いでは、あなた方も魔王の言葉を聞いたそうですね。自分は“影”だ、と。つまり本体にして、はるかに強力であろう真の魔王が、まだ生きている。これを事実と仮定するなら、我々はすぐにでも島の外に逃げるか、打って出なければなりません」
ファリーハが護衛の魔術師以外の全員の顔を見回して、続けた。
「私や政府の議員、高官たちは、魔王が報復に来るのであれば、インヘリト王国がこの島で防戦するだけでは、滅びる可能性が高いと見ています。なにせ我々の祖先を150年前にほとんど絶滅させた、悪魔の軍勢を率いてくるでしょうから。よって、旧世界に部隊を送り、異世界の鎧の力を中心として悪魔を撃退する。可能であれば、魔王を探し出して殺害する。そうすることで悪魔たちの軍勢を弱めるか、インヘリト王国から目を逸らしめることが考えられているわけです」
眼鏡の向こうの王女の視線が、ディゼムとアケウの目を交互に見つめている。
「あなた方には、旧世界への先鋒となっていただきたい。我々の祖先を滅ぼしかけた悪魔の跋扈するという、旧世界。そこへ少数の部隊とともに先行し、いるであろう悪魔を撃退し、足がかりとするのです」
エクレルが、そこで話を遮った。
『話の途中ですまないが、ファリーハ』
「何でしょう」
『我々にこの国の歴史を教えてくれた際に言っていた、送還術というのはどうなのだ? 例えば、それで国民全員を異世界に移住させるということもできるのではないか?』
それは魔術に疎いディゼムには、思い浮かばなかった観点だった。
王女が、白い鎧の疑問に回答する。
「まず根本的な問題としては、異世界に送り込む術に使う、魔術紋様を描く塗料が足りないのです。国中の魔術資源を全て徴発しても、100万人を送りこむ分を作れるかどうか……総人口およそ450万の今の状況でそれをやるとしたら、絶対に国内で諍いが起きることでしょう。それだけは避けなくてはなりません。念のため、ほそぼそと移住先候補の異世界を選定してはいるのですが……私は使いたくないと思っています」
やや目を伏せて語るファリーハの言葉は、もっともなように思われた。
もうすぐ悪魔に滅ぼされるかもしれないこの国から、4~5人に1人だけ脱出できます。
そのようなことを言われては、人心は平常ではいられまい。
「それに、魔術は悪魔たちも使用できますので……彼らが逃げた人類を追って、別の世界までやってこないという保証がありません。もしも逃げた先の異世界で環境が違って、送還術用の塗料の原料が入手できない状況で悪魔たちが追ってきた――などという事態が起きたら、そこで終わりです」
『ふむ……ならば、船はどうだ? 土地の当てはともかく、450万人を乗せるなら10往復するとして、1万5千トン級が300隻ほど必要だろうが』
「その数字についてはよく分かりませんが、海軍には1000人以上を乗せられる船は10隻に届きません。島国であり、外の世界が滅んでいるインヘリトには、そもそもそこまでの人数を乗せる船の需要がないので、民間にはそこまで大きなものがありません。それと、過去に別の無人島を探しに出た海軍の調査船が何隻も帰ってきていないということもあります。海に強力な悪魔か、その艦隊のようなものがいて、それに撃沈されたと考えられていて、遠洋は危険です」
『魔王とやらの侵攻の時期次第だが……防衛の方がまだ成算がありそうだな。理解した』
うなづくエクレルに、プルイナも同意した。
『逃げるにしても、あくまでこの世界の中で移住先を探すということですね』
「そうです。そのためにも、旧世界の探査は絶対にしなくてはなりません。そしてその第一歩として必要なのが、あなたがた異世界の鎧の、能力を知ること」
『我々は構いません』
『着装者に異議がなければ問題ない』
「今日から早速手配しますので、後日、試験をさせてください。実際に戦うとなった時、あなた方がどれほどの戦力となるのかを知るためですので。アケウとディゼムも、そのまま参加してもらいます。給与は魔術省から追加で支給します。詳細は追って知らせますので――」
彼女は息継ぎのためか、一度言葉を区切って続けた。
「2人はそれまで、彼女たちとともにここで寝泊まりしてください」
「えっ」
「はい、殿下」
ディゼムが漏らした声を遮るように、アケウが敬礼する。
ディゼムは倉庫の用途で作られたのが明らかな、コンクリートがむき出しの壁と床を改めて見回した。
「食事や生活調度はここに届けさせます。ここを出て1階のトイレや風呂を使う時は、必ず相棒の鎧と同伴で。トイレは水洗式なので、水はレバーを引いて流すこと。風呂もガスが通っているので、点火した後はバルブをひねって火力を調整してください」
「えーと……」
「はい」
ディゼムはうまく言葉を口にできず、返事をしたのはアケウだけだった。
「では、私は一旦失礼します」
ファリーハはそう言うと、護衛の魔術師2人を引き連れて部屋を出ていった。
部屋にはディゼム、アケウと、2領の全身鎧が残されていた。
ファリーハは様々な部署に連絡を取り、交渉し、召喚した鎧の能力を図るための試験場の手配を進めた。
いつ魔王が悪魔たち――即ち魔王軍を率いてこの小さな王国に攻め寄せないとも限らない。
作戦を立てるための材料として、戦力は早く把握しなければならなかった。
だが、そこに障害が生じた。
予期してはいたことだが、陸軍省が鎧の管轄を主張してきたのだ。
具体的には、彼らの身柄を原隊に戻し、装備品――つまり鎧も管理させて欲しいというものだった。
(確かに、鎧に選ばれたアケウとディゼムは、陸軍の兵士だけど……)
多額の予算を使って鎧を召喚したのは、ファリーハが所属する魔術省なのだ。
鎧が陸軍の管轄となれば、鎧を主軸とするであろう旧世界奪還計画の主導権も、陸軍に移ってしまう可能性が高い。
官僚の悪癖である縄張り意識が出ているのは自覚していたが、譲りたくはなかった。
(それでも旧世界の調査はできるかもしれないけど……)
鎧を陸軍に任せることになった場合、陸軍は着装者を階級の高い将官などに交代させるかもしれない。
鎧たちが着装者の交代を認めるかどうかは不明だ。
だがもし可能となった場合、そんな要員を計画に送り込まれて陸軍の都合ばかりを主張されても厄介だ。
2人の兵士には悪いが、鎧の使い手の階級があまり高いのは望ましくない。
(2名を魔術省に正式に出向させて欲しければ、何か見返りをよこせってことだから……)
ほうぼうに手を回して、召喚の儀式から5日後、ようやく話がまとまった。
陸軍の退役軍人の就職先を魔術省でも手を回して斡旋すること、翌年度から魔術省が一部の陸軍関連企業から資機材の導入を行うことなどで決着が付いた。
ファリーハは内心、臣民たちに毒づいていた。
(魔王軍がいつやってくるかも知れないという時にこいつらは……!!)
ただ、一方的に魔術省が陸軍省の要求を飲まされたわけでもなかった。
陸軍の部隊が鎧の模擬戦の相手役になってくれることが決まり、また同時に陸軍の演習場が使えることになった。
こちらは純粋にありがたく、申し出があった際はファリーハは手のひらを返して喜んだ。
一方、ディゼムとアケウに向けて爆弾が魔術で送りつけられた事件の捜査は、早くも行き詰まりかけているらしかった。
魔術省でも、陸軍や海軍でも、管理下にある魔術塗料が不正に持ち出された形跡はないということだった。
爆弾を空間転移で送りつけられるような魔術が実行可能な組織はこの三つしかない。
(うーん……たとえ持ち出しがあっても素直にいうようなところじゃないし……。陸軍も海軍も……正直なところ魔術省も完全なシロじゃないんだよなぁ……)
ファリーハは、容疑者たちが着装者を狙った爆殺を「しない」理由を挙げていく。
・魔術省は大きな予算と労力をなげうち、鎧の召喚に成功している。
これ以上無駄な手間は避けたい。
・陸軍は偶然とはいえ、鎧の着装者を2名も輩出している。
関与する理由を失う必要などない。
・海軍は召喚に関しては無関係であった。
わざわざ関与して面倒を増やす意味がない。
一方で、爆殺を「する」理由があるとすれば――
・魔術省はトラブルで紛れ込んだ陸軍の着装者を処分し、魔術省の魔術師を着装者にしたい。
・陸軍はより高位の軍人を次の着装者にして、計画における影響力を高めたい。
・海軍は旧世界奪還計画については消極的だったため、計画を妨害したい。
――いずれの動機も、あるといえばあり、無いといえば無いと考えられる状況だった。
あるいは、何らかの形で爆弾を送り付けるような魔術が使えるようになった反王国組織などといった可能性も、皆無ではない。
今のところ、考えてもきりがないことではあった。
(2人とも、さすがにこれ以上地下室に閉じ込めとくのはかわいそうだし……様子見がてら、日程を伝えに行こうかな)
そのあたりまで考えてから、ファリーハは机に突っ伏して眠りについた。
徹夜2日目のことだった。
2日後、その日集まれる王族と閣僚、高級官僚たちが、王宮の謁見の間に集まっていた。
玉座の国王をはじめ、そこに相対してまみえる宰相や各省庁の大臣、それに次ぐ筆頭の役人たちなど、総勢で50名を超えた。
本来であれば、召喚の直後に祝賀会が開かれ十分な周知がされるはずだったが、予定は魔王の“影”の襲来で流れていた。
今回の集まりは、せめて王国の上層部だけでも召喚事業の成果を確認しておくべきだとして、ファリーハと魔術省が調整したものだ。
謁見の間の東側の扉から、一同の前に、黒と白の2領の全身鎧が姿を現した。
「おぉ……」
湧き上がる、小さなどよめき。
彼らは召喚された直後の鎧の姿こそ見ているが、そのあと動いている様子は、避難していたためにほとんど見ていない。
彼らを引き連れたファリーハが、宣言する。
「お待たせしておりました。本来は宴席など設けたいところではありますが、御存じの通りの事情のため、失礼ながら略式にて、紹介いたします」
魔王の襲来――およびそれが“影”であったこと――はこの場の全員が知っており、着装者を狙った爆殺未遂事件についても書面を送り、各関係者に既に事情を説明済みだった。
ファリーハは両手を広げ、左右に侍るように立つ鎧たちを紹介した。
「黒い鎧プルイナと、白い鎧エクレルです」
着装者の性別に関しての混乱や誤認を避けるため、プルイナとエクレルの発声はこの場では禁止していた。
「皆様すでに遠目にご覧の方も多いとは思いますが、あの場に襲来した魔王の影を撃破したのは、この2人です。召喚された鎧が、戦いの際、その場に居合わせた兵士を選びました。着装者の安全のために、彼らの素性は隠しておりましたが、遅ればせながら今、この場で皆様にご紹介したいと思います。黒い鎧、ディゼム・タティ二等兵」
「はい」
ディゼムは名を呼ばれ、頭部をくまなく覆っていた兜を脱いで、素顔を見せた。
緊張しているため、表情が固い。
続いて、
「白い鎧、アケウ・ハーン二等兵」
「はい」
アケウも同様に、兜を脱ぐ。
ファリーハが手ぶりを交えつつ、説明した。
「彼らは偶然、警備で近くに居合わせた陸軍の兵士です。鎧が着装者の交代を拒んでいるので、彼らの身柄の預かり先は魔術省と陸軍とで協議したいと思っておりますが……我々に協力してくれる、力強い異世界の味方と、それを操る忠実な兵士です。先日魔王の“影”を撃破した通り、悪魔との戦いにおいても、頼りになります。この場で派手な動きをさせるわけにも参りませんので、実際の能力のお披露目は、もうしばしお待ちいただくことになってしまいますこと、ご容赦ください」
「そうか」
国王が、そうつぶやく。
ファリーハの祖父。王冠がなければ、市井の老人といっても通じかねない面構えだった。
彼は穏やかに、ディゼムとアケウに声をかけた。
「そなたたちは旧世界奪還の要となる、鎧に選ばれた戦士。責任は重いが、ファリーハたちの手助けを、よろしく頼む」
国王など遠目にしか見たことのなかった2人は、それぞれ――ファリーハに事前に指示されていたとおり――膝を突き、畏まった。
「はい……」
「かしこまりました、陛下」
そこで、ファリーハは鎧の2人に指示する。
「それでは2人とも、兜をつけて、下がってください」
「了解」
「はい、殿下」
黒と白の鎧が彼女の後ろに下がると、国王が孫娘を労った。
「召喚は成功した。遅れてしまったが、おめでとうファリーハ」
彼女の祖父である国王がそう祝うと、他の王族や閣僚、官僚たちもおもむろに拍手をした。
「身に余る光栄です、国王陛下。短い時間でしたが、身の安全を鑑みて、彼らを一度引き取らせていただきます」
「それがいい。もっとも、召喚事業の成果だ。近いうちに、国民にお披露目したいところではあるが」
「そちらも近日中に予定しております。爆破未遂事件の犯人も、この場の皆様のご協力を得て、一日も早く確保するつもりです」
「うん。くれぐれも無理はしないように」
「お気遣い、ありがとうございます」
深々と礼をして、ファリーハはその場の全員に呼びかけた。
「それでは皆様、これにて紹介を終えたいと思います。お忙しいところ、御足労おかけしました。魔術省の招いた異世界の鎧を、どうぞよろしくお願いいたします! ありがとうございました!」
そこで、謁見を兼ねた鎧の紹介は終わりとなった。
国王が謁見の間から退出すると、鎧をまとったディゼムたちの元に、数十人もの来客が集まってきた。
立場上、暇な人間は皆無のはずだが、このために時間を空けた者もいるのだろう。
ディゼムたちは、困惑しつつ、彼らのなすがままにされていた。
「もっとよく見せてくれたまえ!」「ずいぶんスベスベとした質感だな」「この手の平に並んでいる円形の溝は何かね?」
ディゼムは小声で、プルイナに助けを求めた。
「ぷ、プルイナ、何とかしてくれ……」
『事前に説明は聞いていたでしょう。聞いた人が混乱するというので、ファリーハから我々が外部に音声を発することがないよう要請されています。ちなみにこの声は外部には聞こえていないので問題ありません。機密ですのでご質問にはお応えできません、とでも答えるのがよいでしょう』
「えー機密事項なんでぇ! 質問には答えられませーん!!」
一方で、忙しい者は次の予定先に向かい、鎧にさほど興味のない者は歓談や打ち合わせなどで三々五々、謁見の間から出て行く。
ファリーハも忙しいが、この場でまだ、やっておくことがあった。
魔術大臣には、後の打ち合わせの日程の確認を。
陸軍大臣を呼び止めて、兵士2名の身柄を借り受けていることや、演習が決まったことに礼を言った。
海軍大臣は仕事で欠席していたが、海将――国王の弟でもあった――と世間話を交えて、海軍の様子を尋ねてみた。
だが、先ほど集まっていた時も含めて、怪しい素振りを見せた者はいなかった。
(……私にわかるようなら魔術省も警察も苦労はしてないか)
彼女は鎧の2人を連れて王宮を出て、馬車を待機させている停車場へと向かった。
その時、魔王も玉座にあった。
いや。
“座”、というのは、正確ではないかも知れない。
それは玉座と呼ばれてはいるが、腰かけるような代物ではなかった。
暖かな光に満たされた広大な空間の中心に、石が積み上げられている。
その石は、間近でよく見れば、人間が凝縮して形作られているように見えなくもない。
無数に折り重なった“石”は、火のような色に染まり、ゆっくりと燃えて続けていた。
低い唸り声のような音が響き続け、ほのかに燃える硫黄の香りが漂っている。
その堆き山の頂点に、巨大な卵が置かれていた。
それが、今の彼女の玉座だった。
透き通った殻が、柔らかな炎に照らされ、外から内部がうかがえた。
金色に輝く、魔王の本体。
浮力で広がる、燃えるような黄金の髪。
しなやかな肢体と尾を抱え込むようにして、体全体を丸めている。
それは魔王の玉座、そしてその位置する大典の間。
銀色の肌の悪魔が、骸の山から離れたところで、彼女を見守っていた。
尻尾が生えている以外は人間とさほど変わらない体格に、衣をまとっている。
銀色の悪魔ヌンハーは、懸念するようにつぶやいた。
「ワーウヤード……なぜ“影”をお戻しにならない……?」
「案ずるな、ヌンハー」
すると、彼の背後から声がする。
そこにいるのは、鉄錆の色をした悪魔だった。
首から下を持たず、頭部だけの存在。
額から角の生えた大きな頭だけが、玉座の間の床を転がっている。
「アリフバ。魔王が人間を探すといって“影”を飛ばしたきり、戻されぬ。何があったと思う」
いつもなら、散策を終えた“影”は戻ってきて、玉座の中の魔王へと還る。
銀色の悪魔ヌンハーの問いに、アリフバと呼ばれた悪魔が答えた。
「“影”は夢を見ているようなもの。いつもならすぐに“影”をお戻しになるはずの魔王が……5日を過ぎてもそれをなさらぬ。何かがあったと考えるのが妥当だな」
「何がしかの事故か? あるいはどこかに消え残った人類が、“影”とはいえ、魔王を討ち取るなどということをしたと?」
魔王が、自身の生まれる前にこの世に送り出してきた写し身。
それが人間に破れたという推測に、ヌンハーは愕然とする。
鉄錆色のアリフバがそれを見て、頭だけの身体を床に打ち付けながら――首をひねる動作らしい――答える。
「断言はできぬが……予言の戦士というものかもしれぬ」
「先代の予言が、的中するというのか。ヒトの戦士に、我らが脅かされると?」
先代の魔王――即ち、玉座の中の魔王の母である、一代前の悪魔の長だ。
ヌンハーは頭だけの身体でごろごろと床を転がった。
それは首を横に振る動作らしく、彼は言葉を濁す。
「……わからぬ。しかしもしそうだとしても、御身が宮からお生まれになる日は近い。先代を上回ることを定められた御方。気がかりはない」
「それも先代の予言か?」
「事実よ」
ヌンハーは内部に魔王の浮かぶ卵を見遣り、アリフバに問う。
「魔王がお生まれになるのはいつだ。もっとはっきりわからないのか」
「わかるものか。“石”を増やそうにも、すぐには無理だ」
「……魔王の“影”の消息は追わせていた。そのあたりを探せば、まだ残っているヒトが見つかるかもしれん」
「そうだな……まずはかつてヒトどもを最後に根絶やしにした港に、軍勢を集めておこう」
「頼む」
銀色の悪魔ヌンハーは衣をたなびかせ、広間から出ていった。
そこは未だ生まれぬ魔王の玉座、大典の間。
魔王の城の、最奥部。
不気味な内部に、不気味な威容の居城だった。
しかしその外には美しい、花咲く山々が広がっていた。




