3.4.王都の観光者
アウソニアから帰還して、4日後。
ディゼムは黒い鎧をまとい、魔術省の研究施設にいた。
立ち会いの魔術師2人に見守られながら、黒い鎧が、実験用の皿から塗料を指で掬う。
鎧の検出装置が、その成分を分析していった。
『主成分は酸化亜鉛、酸化コバルト、酸化アルミニウム……我々の世界と違う成分は無し』
地球産の典型的な顔料に、近い組成だ。
黒い鎧の内部で合成回路が作動し、解析情報と同等の成分が生成される。
『ではこれを再現して合成し、魔術紋様を描きます』
そして再現された顔料が指先の多目的射出孔に届き、外部へと送られる。
黒い鎧の5本の指が、それぞれ別個の軌道を描き、木の板の上を滑った。
それに合わせて動かされる、内部のディゼムの指。
奇妙な感覚ではあったが、彼は慣れて、身構えることもない。
「…………」
今回プルイナは、“描いた場所から運動エネルギーを放出する”という魔術紋様を描画した。
成功したなら、紋様から運動エネルギーが放射され、その影響を受けた周囲の空気に対流を生じる――
つまり、紋様を起点に微弱な風が吹く。
ディゼムの指に、再び違和感が走った。
「あっ、何か押されてる感あるぞ!?」
『本機のセンサーでも、圧力を感知しています。成功のようですね』
黒い鎧の伝達機能が、ディゼムの指に同等の感覚を伝えていた。
立ち会いをしていた魔術師2人は、怪訝な顔でそれを見ていた。
本来であれば魔術紋様とは、同じ塗料、同じ図形を描画すれば、誰でも同じ成果を期待できるというものだった。
彼らにディゼムたちのやり取りは聞こえていないが、なぜこんな当たり前のことを、という気持ちがあったことだろう。
プルイナにとっては、不思議だった。
この世界では、彼女たちのいた世界とはわずかに異なる物理法則が作用しているようだ。
同じ組成の塗料をカリスト軌道に持ち帰って魔術紋様として描画しても、同じ効果を顕すことはあるまい。
その後もマニュアルに従い、ディゼムたちは魔術紋様を試し続けた。
熱を発するもの、音声を遠方に転送するもの。
紋様を描いた対象の強度を、劣化させてしまうもの。
より大型のもの、より複雑で緻密なもの。
さらには理論書に基づくアレンジを加え、意図通りの効果を出す紋様を描くことまで行った。
様々な塗料の配合も、プルイナには法則性が理解できた。
2時間ほども色々と試して、彼女はディゼムに報告した。
『ディゼム、問題は解決しました。魔術紋様というもの、実際にはこの世界の人々が持っている魔力が必要なのではないかと本機は考えていましたが……そうではなかったようです。我々にとって有益な事実です』
「よかったじゃねえか」
『あなたももっと喜んでくれていいんですよ?』
「喜んでねえわけじゃねえよ……俺は紋様のこととかまるでわからんから、任せる」
『では……用も済みましたから、魔術師たちに挨拶をお願いします』
「あぁ。えーと……」
プルイナも外部音声を発することは可能だが、明らかな別人の音声では混乱させるという理由で、鎧の素性を知る者以外には許可されていない。
実際にはディゼムと全く同じ声質に変えることさえ可能だったが、それはそれで紛らわしい。
ディゼムはプルイナがバイザーの画面に示した内容を、外部音声で口にした。
「あー、成功のようです。異世界の鎧を使っても紋様が描けるのかという懸念は、払拭されました。ご協力に感謝します」
「ええ、はい……お疲れさまでした……?」
少々言葉がぎこちなかったようだが、問題はないらしい。
魔術師たちは、いそいそと機材の片付けに取り掛かった。
理屈の上では魔術紋様限定とはいえ、プルイナとエクレルは最上級の魔術師となり得ることが分かった。
実際にはそう単純なことでもないだろうが、これは再度の旧世界探査に向けての大きな収穫といえる。
後始末を魔術師たちに任せ、ディゼムとプルイナは研究施設を後にした。
魔術紋様の形状は、理論に基づいて決定される。
図形や記号、注釈などの形状と配置次第で、効果が変わってくるのだ。
魔術紋様を扱う魔術師は、前提条件と求める結果から、理論的な計算で紋様の形状を導き出すことになる。
基本的には、大きな結果や強い効果を得たければ、必要な紋様はそれに比例して大きく、複雑になる。
魔術の効果を強める特定の材料が知られており、これらを塗料に使用することで、さらに効果を強めることができた。
また、建物などを用いた立体的な魔術紋様というものも存在した。
こうした立体構造は形状などの算出に高度で複雑な計算が必要となるが、それさえできれば面積要件を大幅に緩和可能となる。
知識や手管に優れた者が、高品質の塗料を用いて立体構造で紋様を描くことで、得られる結果は限りなく理想に近づく。
なお、求めている結果が厳密に定められていて、かつ必要最小限であればあるほど、魔術紋様による魔術は成功しやすい。
――では、「曖昧」で「大きな」目的を達成するためとなると、必要な資材、労力、成功率はどうなるのか?
それはつまり、必要な予算が指数関数的に大きくなることを意味した。
まして「追い詰められた人類を救ってくれる者を異世界から召喚する」などとなれば、雲を掴むごとき条件だ。
前回、人間たちに協力的な異世界の鎧などという代物がやってきてくれたのは、奇跡と呼べるだろう。
だが、人はそうした都合の良い結果が出れば、ならば次も、と求めてしまうものだ。
こうして、莫大な予算を費した二度目の召喚――第二次救世主召喚事業が、急遽、実施される運びとなった。
ファリーハは、再び図形や記号まみれになった大聖堂を見て、ため息をついた。
作業が早い。
(うちの魔術省も、請負業者の人たちも、優秀だなぁ……)
最初は設計も含めてほぼ1年を費やしての大事業だったため、なおのこと感慨深かった。
魔術紋様の計算自体は、前回使用したものを流用するので、当然工期は短くなる。
大聖堂の天井などには魔王の“影”の襲来で破損した箇所が残っており、これを回避して紋様を描く必要はあったが、その部分の修正もごく短期間で終わっていた。
そして、前回からさほど間も空いていないので、魔術省の人員も、民間の協力業者も、作業に手間取る部分が減る。
作業が早まるのは当然とはいえ、やはり感慨深かった。
今日で作業は、紋様の再計算作業から含めても4日目だ。想像以上に早い。
報告によれば、明日には儀式が可能らしい。
(魔王が攻めてくる懸念はあるけど……これは正直、期待してしまう……)
とはいえ、彼女がそこで見ていなくとも、作業は問題なく進む。
ファリーハは大聖堂を眺めるのをやめて、次の仕事へと向かった。
アウソニアから帰還して、5日目の朝。
その日は、ディゼムとアケウに休暇が与えられていた。
休暇といっても、特に予定はない。
「…………」
ディゼムは鎧の通信機能を使って、隣室のアケウと話そうと試みた。
ベッドに寝転びながら黒い鎧の兜だけを被った、傍から見ると滑稽な姿だった。
アケウも休日なので、鎧を着てはいないはずだ。
鎧を介しての通信なので、まずはエクレルに呼びかける。
「エクレル、アケウを出してくれ」
『何の用だ?』
鈴の鳴るがごとき女性音声が、疑わしげに返事をした。
「お前別にあいつの母ちゃんじゃねえだろ! 今日の予定を聞きてえの。代わってくれ」
『まぁ、いいだろう。代わってやる』
「何様だお前は……」
エクレルを非難していると、声がアケウに切り替わった。
「あ、ディゼム。代わったよ。今日の予定?」
「あぁ……俺は何もねえから、お前の用事にでも付き合おうと思ってたんだけども」
「特にないよ?」
「何もねえなら実家にでも顔出せば?」
「いいよ……あんまり頻繁に行くと、暇な仕事なんじゃないかと疑われそうだし」
「いや、実際ヒマだろ俺ら」
「これは正式な休暇だろ? ていうか、ホウセはどうしたの?」
「えーあいつ? 何であいつ?」
「てっきり君のところにでもいるのかと」
「何でだよ……俺はあいつの保護者じゃねえ」
そこまで話すと、ディゼムの部屋の扉を叩く音がした。
「ディーゼームー。起きてるー?」
ホウセだった。
扉を無遠慮に叩きながら間延びした声で名を呼ばれ、ディゼムは頭を抱えた。
「何なんだよ何で俺なんだよ……」
「ディーーゼーームーーくーーん!」
「あぁもう、うるせぇな……!」
ディゼムは黒い鎧の兜を脱ぐと、ベッドから飛び起きて玄関扉へと向かった。
扉を開けて、
「何だよ」
拳を振り上げたまま扉の前に立っている娘を睨んで、ディゼムは訊いた。
ホウセは手を下ろしながら、
「いや、あんまり暇だったから。観光案内でもしてもらおうかなぁって」
「観光案内……?」
訝っていると、そこに、隣室からアケウもやってきた。
「そうか、ホウセはインヘリト生まれじゃないんだよね。考えてみれば当然だけど……遷都以来、史上初の観光客なんじゃないかな」
「……それで何で、俺が案内なんてすんだよ」
「アケウより暇そうかなって」
「ふざけんな! まぁ暇なのはそうだけども!」
悔しいながらも、ディゼムはそれを認めた。
「僕もディゼムも休みだよ。案内ならいいんじゃない? 手伝うよ」
親友にそう言われ、ディゼムは考えた。
予定がないことに変わりはない。
「…………まぁ……暇だしな……」
「鎧は私用では持っていけないから、遠くまではいけない。僕らだけで王都の案内だけになるけど、いいかな?」
自室の方を見ながら、アケウが条件をつけた。
「うん。よろしくね」
ホウセがうなづいて、笑う。
そして、即席の観光案内が始まった。
官舎に残された鎧たちは、無音で交信する。
『いいのか、プルイナ』
『まぁ、いいでしょう。彼らは通信機を首に巻いていますから、王国内にいるならいつでも駆けつけられます』
『……音声だけでも聞こえるようにしておくか』
『何があるかわかりませんから、それがいいでしょうね』
交信が終わると、二領の鎧は待機状態に入り、彼らの帰りを待った。




