2.2.不意の出発
そして、出発当日。
爆破された魔術紋様は、完全に修復されていた。
なめらかに削られた岩肌に、青黒い塗料で大型の魔術紋様が描かれている。
直径はおよそ5メートルほど。
原型となった紋様はもっと小さかったが、それを拡大・再解釈することで、多人数の転移を可能にしたものだ。
転移させる人数を増やしたいとなれば、紋様はより大きく、複雑になる。
それを取り巻く、ビョーザ回廊跡地に集結した旧世界探査隊。
戦闘員16名(8名ずつ2分隊)。
測量隊6名(3名ずつ2班)。
帰還時の魔術紋様を描画する魔術師4名(2名ずつ2班)。
そしてファリーハ、ディゼム、アケウを含めた、総勢29名。
鎧は数に入っていない。
周囲には探査隊の拠点となる即席の区画が設けられ、寝泊りができるようになっていた。
計画の拡大を見越して、区画は増設されつつあった。
「それでは出発の前に、簡単ですが、隊長としてお話しておこうと思います」
新たに編入された戦闘員3名と測量員3名の顔合わせもそこそこに、ファリーハは探査隊への短い談話を行った。
現地には見送りとして、王族の一部や関連省庁の官僚、報道関係者などが合わせて100人ほど来場している。
元々広い場所ではないので、ビョーザ回廊跡地はそれなりに人で溢れた。
これ以外の、特別な式典などは行われない。
談話を終えて、ファリーハが各個に指示した。
「では、第1分隊と紋様1班、魔術紋様の内側へ」
指揮者である王女の安全を優先して、まずは兵士8人と帰還の紋様を描画する魔術師2人が先行することになっていた。
周囲の安全を確認次第、帰還用の紋様を描画してこの場所に戻ってくる手筈だ。
該当の10人が、紋様の内側へと入る。
ファリーハが、再び指示を出す。
「それでは、結んでください!」
紋様は完全には完成しておらず、最後の1画を書き入れることで作動する。
それを書き込もうと、紋様班の魔術師の一方が筆を取り出した、その時。
黒い鎧が、高速で魔術紋様の内側へと入り込んだ。
「どうした、プルイナ!?」
黒い鎧は、最後の1画を書き足そうとしていた魔術師の右腕を、がっしりと掴み止めていた。
プルイナが、内部のディゼムに説明する。
『ディゼム。彼女が手に持っている瓶を見てください』
「瓶?」
見ると、魔術師――女だった――が持っているのは、筆ではなかった。
透明な液体の入った一握りほどの太さのガラス瓶だ。
『念のため、押収します』
プルイナが黒い鎧を操作し、魔術師の手からガラス瓶を奪い取る。
「確かめます」
ファリーハがそこに近づいて、黒い鎧から瓶を受け取った。
瓶の中身は透明だ。
それを見て取った時点で、彼女は凄まじい形相をしていた。
普段の理知的で温和な表情とは、比べ物にならない恐ろしさ。
ファリーハは蓋を開け、瓶の口の周りを手の平であおぐ。
匂いを嗅ぎ取り、彼女は結論を告げた。
「これは除去剤ですね。魔術紋様を、抹消するための」
声には怒りが籠もっていた。
彼女の指摘に、魔術師が釈明する。
「それは、書き損じた時のための――」
「ここまで大きな容器で持ち込む必要が、どこにありますか!」
「…………!」
王女の怒気に圧されて、彼女は言葉を詰まらせた。
魔術師も、魔術省の官服をまとっている。
海軍のメンバーを外したために、魔術省から新たに補充された要員だった。
彼女を難詰するファリーハの表情は、珍しく怒りに満ちていた。
「ザーリー大尉、出発を延期します。まずは彼女を拘束して、計画から外しま――」
その時、女魔術師が動いた。
「ぅ――!?」
瓶を押収したままその場を離れようとする王女に、魔術師は後ろから掴みかかろうとする。
が、黒い鎧にしっかりと手首を握られていたため、それは果たせず、代わりに彼女の官服の裾を掴んだ。
「あっ!?」
勢いで薬品がこぼれて、ファリーハの官服を濡らした。
彼女に対し、魔術師は度を失ったようにささやく。
「殿下が……この無謀な計画をおやめにならないのなら!」
ファリーハが叫んだ。
「エクレル! プルイナ! 彼女を完全に拘束してください! 魔術紋様の外へ!」
それを受けて、黒と白の鎧は動く。
『人身保護プログラムを適用します』
黒い鎧が、手首をつかんでいた魔術師を投げ飛ばす。
そこに向かって、白い鎧が指先から粘着繊維弾を発射した。
『バインド・シルク、行使!』
魔術師は洞窟の、天井近くに貼り付けられる形となった。
「うぐ……!?」
プルイナとエクレルは、そこで、その魔術師を完全に鎮圧したと判断した。
相手の身体を投げ飛ばした際の重心の位置から、所持物の有無が推定できる。
結果、所持物はなし。
女は爆発物と思われる重量の物体は、何ひとつ所持していない。
「あぁ……!」
にもかかわらず、他の魔術師たちや軍人は動揺していた。
プルイナとエクレルは、知らなかった。
正確には――知っていたが、それでも優先順位が低いと判断していた。
魔術という、太陽系には存在しなかった技術のことを。
そして彼女たちは、魔術師が身一つで魔術を行使できるということの意味を、思い知ることになる。
誰かが、叫んだ。
「逃げろっ!!」「爆破されるぞ!!」
そうした声を上げたのは、王族や官僚の中でも魔術の心得のある者たちだった。
魔術の心得がある者ならば、魔力の集中を感じ取り、相手の使おうとしている魔術の種類にある程度見当をつけることができる。
それが強大な威力を持っていれば、なおのこと判別が容易だ。
ファリーハも、それを察知していた。
「誰か、魔術封じの札を――」
悪魔と遭遇するかもしれない探査隊の兵士たちは、魔術封じの札を装備として持っていた。
だが、相手は天井に貼り付けられている。
間に合わない。
プルイナたちには、状況が判断できない。
兵の誰かが、叫んだ。
「殿下をお守りしろ!!!」
複数の兵士たちが、王女の壁となって立ちはだかろうとした。
ファリーハは懐から短剣を取り出す。
黒と白の鎧は、未知の状況から危険度を推定し、兵士たちの前へと移動した。
そして、計画の妨害を阻止された魔術師から、爆発の魔術が放たれた。
「全部、砕けろ――!!!!!」
ビョーザ回廊の内部に、魔術の爆発で発生した衝撃が吹き荒れた。
やや広くなっていたとはいえ、それでも閉所での爆風は多くの被害を出した。
爆発が収まった跡には、逃げ遅れた兵士たちの遺体。
見送りに来ていた王族や官僚はやや距離が離れていたものの、それでも死者、重傷者が出ていた。
そこかしこに血液と、爆発の熱で生じた焦げた臭いが漂っている。
王国に、衝撃が走った。
ディゼムが気づくと、そこは薄暗い部屋の中だった。
さほど広くもなく、ベッドやタンスといった家具のほかには何もない。
窓にあるカーテンの隅間から光が漏れていて、外が昼間であることが知れる。
そこかしこにほこりが積もり、蜘蛛の巣が張っている。
突然、目の前の風景が、そうしたものに変わったのだ。
「……どこだ、ここ」
軽く体を動かしてみると、黒い鎧は身につけたままだ。
プルイナの落ち着いた声が、疑問に答える。
『不明です。0.0024秒で、周囲の状況が一変しました』
プルイナが、周囲の光景が切り替わる瞬間を、スロー再生で内部のディゼムに見せる。
下から、地面に平行な境界線がせり上がってきて、それを境に風景が切り替わっている。
『こうした現象を説明するのは、本機には困難です』
「転移ってやつか……?」
少なくとも、元いた洞窟ではない。
また、部屋にはほかに誰もいない。
カーテンを開けると、ほこりが舞い散った。
外が見えても、分厚い生垣が視界を塞いでいた。
窓の反対側には、扉が1つ。
「ほかの連中はどこだ……?」
それに応えて、プルイナが報告した。
『白い鎧はすぐ近くに反応があります。ほかの人々も同様です』
「何だ、いるのか」
扉を開くと、すぐそこに白い鎧が立っていた。
扉を開けようとしていたらしい。
装甲越しに、アケウが尋ねてきた。
「ディゼム! 無事かい?」
「あぁ、何ともねえ」
「殿下や探査隊のみんなも無事だ。転移自体は成功したみたいだけど」
「紋様を消そうとした魔術師は?」
「いないみたいだ」
部屋を出て狭い廊下を渡ると、やや大きな部屋に出た。
そこに、魔術紋様の中にいた隊の魔術師や、兵士たちが固まっていた。
さほど広くもない面積に、10人以上。
それぞれが旧世界で数日活動するための荷物を持っているため、部屋はかなり手狭だ。
全員、少し当惑しているようだった。
ファリーハもいた。
彼女はディゼムの着た黒い鎧の姿を見て、安堵したらしい。
「全員、揃っているようですね……」
ただ、眉根を寄せて、困ったことになった、といった様子だ。
また彼女は、左手の親指を白いハンカチで包んでいた。
ハンカチには、血がにじんでいる。
「姫様、その怪我どうしたんスか」
「全員揃ったから、殿下がご説明してくださるよ」
白い鎧から、エクレルがファリーハに訊ねる。
『頼むぞ、ファリーハ』
『同じく。何が起こったのか、我々には理解できていません』
黒い鎧の眼窩を点滅させて、プルイナも同調する。
彼女は自分の腰に帯びていた短剣を指して、説明した。
「あの魔術師が自爆する瞬間、自分で指の腹を切って、その血を使って魔術紋様の最後の1画を描きました。それによって、転移の魔術が発動して、こうなったようです」
『人間が爆薬もなしに自爆とは……魔術とは何でもありだな』
エクレルが、感心したように音声を発した。
魔術師の血液はある程度、魔術紋様向けの塗料の代わりになる。
先日海軍に拉致された際も、彼女は自分の血だけで魔術紋様を描き、手紙を飛行させるという技を見せたことがあった。
アケウはそれを思い出しつつ、口にした。
「ではやはり、僕たちは旧世界に……?」
「えぇ……自爆行為などされなければ、予定通りだったのですが。私の血で発動させたので、魔術紋様の座標が狂ったかもしれません。ここは目的地じゃないかも……」
ディゼムは絶句した。
「……まじスか」
「しかも、遠話の魔術紋様がどこにも繋がらないという……」
そこまで聞いて、プルイナが再び質問した。
『帰るための魔術紋様を描くことは出来ないのですか? あるいは、あちらが召喚の魔術で我々を呼び戻してくれるのを待つという手もあるのでは?』
「問題はインヘリト王国全体が、転移妨害の結界で覆われていることです。結界が張られている間はその内部には入れず、外側にはじき出されてしまいます。召喚についても、悪い手ではないと思いますが、もしこの場所が予定地点とずれていたら、召喚で呼び戻すのは難しいはずです」
『転移の際に、結界の外に弾かれる。逆に言えば、結界の近傍まで転移することは可能ですね?』
「ええ」
『ならば、まずはディゼムかアケウが、それぞれの鎧を着装したまま転移しましょう。結界に弾かれて近海上空に出現したとしても、我々なら空を飛んでインヘリト王国を探すことができます』
「結界の魔術紋様で外からは見えなくなっていると思いますが……可能ですか?」
『その結界の仕様次第ですが、結界の外の、夜空の星まで覆い隠すものではありませんね?』
「ええ、あくまで結界の外から、内側にある島が透明に見えるだけのものだと聞いています」
『ならば、結界の外の、夜空の星まで覆い隠すことはないはずです。そして、夜に星が出ていれば天測航法が使えます。インヘリトの星図については、図書館でデータを得ていますので、それを使って結界に隠されたインヘリト王国の位置を探ることが可能です。インヘリト王国まで辿り着けば、王国に結界を一時的に解除するよう要請できるでしょう。本機はこの方法を提案します』
「……それがよさそうですね。少し時間をください」
「殿下」
薄暗い部屋の中で所在なさげに立っていた2人の魔術師が、ファリーハの言葉を聞き、彼女に近づいてくる。
「塗料も無事です。周囲を確認しつつ、場所を探して描画しましょう」
「ええ、頼みます」
ファリーハの声には、やや力がなかった。
兵士たちの隊長――ザーリー大尉と呼ばれていたか――が、彼女に話しかける。
「我々は周囲を確認・警戒します。ここが旧世界ならば、悪魔がそこいらを歩き回っている恐れがあります」
彼に続いて、黒い鎧からプルイナが報告した。
『音響反応を検出しました。家屋の周囲に多数の動体』
一行に緊張が走る。
兵士の何人かが、窓から外を覗くが、やはり生け垣に阻まれて見えないようだった。
「悪魔か……?」
『不明です。ディゼム、本機はこのまま屋外で状況を確認します』
プルイナがそう答えると、大きな物音が響いた。
黒い鎧が部屋から廊下に出ると、怪物の姿が視覚センサーに映る。
玄関扉を破壊して侵入したらしい。
大きさは人間ほど。
ただし、全身がガラスのように透き通っている。
頭部の眼は黒い単眼で、その真下にはくちばしのようなものが生えている。
「悪魔か……!?」
それは図書館の資料で見た、下級の悪魔の図に似ていた。
下級悪魔と思しい怪物が、黒い鎧に向かって走ってくる。
腕の先端は、長い刃物を束ねたような形状だ。
こちらに振り下ろすつもりらしいと見て、ディゼムは呼びかける。
「やるしかねえ、行くぞプルイナ!」
『了解です』
黒い鎧が、家屋の床を蹴って飛んだ。




