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少々、買いかぶりすぎていたか。
ガントン将軍は片眼で睨み返しながら、自身の胸の内を怪しんだ。相手は巨漢に違いなかったが、畸形じみて膨らんだ肩や腹に見合うほどの上背はない。将軍自身の背が低いので、誰と対面しても見下ろさるのはやむを得ない。それよりも、実際にデスベルトを眼前にしたとき、血塗られた経歴から想像していたほどには、不快でないのが奇妙だった。
野卑そのものの物腰も、ところ構わず塗りたくった獣脂の耐えがたい臭いも、ただ一匹の荒熊から発せられているのだと思えば、忌むべき理由はなくなる。むしろ、首の周りを掻き毟りながら、ぼそぼそと喋る姿に、愛嬌すら覚えてしまう。
つまりこの男は、具現化した獣性に過ぎないというわけか。複雑怪奇な宮廷の権力争いとはあまりにも無縁な、ただの欲望、おのれ独りの欲望を腕一本で追い求め、奪いとってきただけなのか。
「なあ、おれたちはどこへ行けばいい? 食い物と龍と武器をたっぷりくれるんなら、ガル山の向こうのどこまでだって行けるぜ」
高地とトゥエル・バイスンとの間ではガル山が最も峻厳になるため、もしもかれらがトゥエル方面へ攻めこみたければ、一旦、ソガ平原まで降りてくる必要があった。南下するにつれて山並みは緩やかになるからだ。
「つまりおまえたちは、おまえたちの部族だけでトゥエル・バイスンの王都へ攻め込むつもりだと、そう言いたいんだね」
「ああ、その何とかって国の王様を羊みたいに屠ってな、何もかも、おれのものにするんだ」
不気味な微笑とともに、強烈な臭気が漏れた。ひとつ肩をすくめると、将軍は背中で手を組み、この野人の前を行き来し始めた。がらんとした広間に、靴音がこだまを返した。チェグ盤模様の床はすっかり傷み、壁にはぼろぼろのタペストリーが、かろうじて引っかかっているが、かつては千人の王侯貴族がこの広間で踊り明かしたという。
現在はミカエレ守備隊の本営として利用されており、松明が焚かれ、幕僚と百人の兵が詰めていた。こんな身を隠す所もない部屋では、この男がどれほど狂った怪物だとしても、乱暴をはたらくことは不可能と思われた。雷雨のような衝撃と恐怖がひととおり去り、心にゆとりができたせいで、かれは野人を相手に、少しばかり無駄話がしたくなった。
「王になったあかつきに、おまえはどうするつもりなのか」
意表を突かれたのか、荒熊は目をしばたたかせた。髭面と体格のため貫禄があるけれど、思った以上に若いらしい。まだ二十歳をさほど出てはおるまいと将軍は値踏みした。
「さあな。隣の隣にも国があるんなら、今度はそこの王様をカラニガニみたいに叩き潰すさ。もしどこにも国がなければ、こっちの王様を罠にかかったガントンみたく、血祭りにあげるのさ」
高地ではイノシシをガントンと呼ぶことはわかっていたが、将軍は当然、よい気持ちがしなかった。
それにしても、この男はひたすら征服することしか念頭にないのか。刃渡り七十五サンタマールの戦斧を車輪のように振り回し、無数の龍騎兵を引き連れて、怪物はどこまでも駆けてゆく。かれらが通った後は村も街も城も血の海と化し、帝国の版図はどこまでもどこまでも、際限なく広がってゆく。
やがてデスベルトの恐怖の帝国は、世界を覆い尽くす……
めまいを覚えたように、ガントン将軍は足を止めた。靴音が止むと、急に辺りが静まり返った。圧倒的な闇に押しつぶされまいと足掻くような、松明の爆ぜる音が不吉に響いた。声が震えそうになるのを、将軍は懸命に自制した。
「むなしいと思わんかね。一国の王にさえなれば、何事もおのれの命ずるままだ。羽毛の寝台で寝ながらにして何でも手に入るのであって、ジラ虫のわく戦陣で寒暑に耐える必要もない。それを……遠征に継ぐ遠征で世界の隅々まで征服しようだなんて、夢物語だよ。狂人の夢だ」
覚えず本音が出たが、デスベルトは薄気味わるい微笑を浮かべたまま、
「おれと同じ王様というやつが隣にもいるのに、なんでぬくぬくと羽毛の寝台なんかで眠れるものか。いつか寝首を掻かれるまで、涎を垂らしながら夢でも見てろっていうのかい」
「それは真実だが」と、また本音が出てしまう。
この男、思った以上に頭が切れる。
そうだ、この男の言うとおり、王の地位を得たとたん、安らかな眠りとは無縁となろう。後宮のツボネごとに十人のシノビを置いたところで、年代記は「寝首を掻かれた」王の例を挙げることに暇がない。誰かが王になることで利権を得る者がいる限り、必ず損をする者があらわれ、不満分子を形成する。王宮における権力闘争とは、往々にしてそんな派閥どうしの血で血を洗う争いに始終する。哀れな王や王子は、派閥に担ぎ出された神輿に過ぎない。
この男のように、みずからの手を血で染めながら吸龍のように這い上がってくる王など、今はもういないのだ。
気がつくと、デスベルトの岩のような身体が将軍に詰め寄っていた。
「なあ、ここにも昔は王様が住んでいたんだってなあ。てことは、あんたも王様の一人なのか? そうなんだろう」
「わたしが?」反射的に後しざりしながら足首に力を籠めた。ここで転んだら「終わり」だという気がした。
「おまえには、わたしが王に見えるのか。マントはぼろぼろで、全身刀傷だらけの、ガントンという野獣の名をもつこのわたしが」
一笑に付したつもりが、声と表情を引きつらせたばかり。対して野人はますます不適な態度で、首の後ろを掻き毟りながら、その場にあぐらをかいた。
「だけど山羊男たちからよお、おれは聞いたんだよ」
山羊男とは、高地における吟遊詩人の一種だ。鎖帷子の上からしきりに全身を掻き毟りながら、デスベルトは言葉を継いだ。
「あんたにも王様の血が流れてるんだってなあ、だからやっぱり、この辺りの王様と言や、あんたのことなんだろうなあ。それによお、あんたほどの猪なら、相手に不足はねえんだな」
つい今しがたまであぐらをかき、身体を掻いていた男が、次の瞬間には宙に浮いていた。
金色に輝く眼。
何か奇声を発しているらしく、大きく開いた口から覗く犬歯はとても人間のものとは思えないほど太く、尖っていた。
「ほよっ、とほおおおおおおおうううう!!」
まがまがしい閃光のように振り下ろされた戦斧がかれの剣を粉々に砕き、床をえぐった。剣が折れる衝撃で後ろに弾き飛ばされたたことが、ガントン将軍に幸いした。そばにいた数人の博士が頭巾つきのマントを脱ぎ捨てると、かれらは変装した兵であり、磨き抜かれた銀色の鎧をきらめかせ、ばらばらと剣を抜き、デスベルトの前に立ちふさがった。
「はやほおおおううううっつ!!」
野人が吠え、巨大な戦斧がまた一閃した。兵たちの阿鼻叫喚とおびただしい返り血を浴びながら、将軍は声を限りに叫んでいた。
「イダゴウグ! イダゴウグよ、出あえ!」




