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騎龍転生  作者: 森野青果
11/15

3-2

「だいじょうぶですから。ちょっと、飲みなれないものを飲んだせいで、びっくりしちゃって……」

 実際、異変は急速に治まろうとしていた。燃やすものが尽きたように、体内の炎がすーっと引いたあと、手足や胸にぽかぽかした暖かさが残った。ためしに肘を曲げ伸ばししてみたけれど、ちっとも痺れない。タケルは感嘆の声をもらした。

「すごいですね、これは……何という飲み物ですか」

「コーヒーと申しますわ」

「は?」

 コーヒーという名は知っていたし、おぼろげながら、以前は朝から晩まで普通に飲んでいた覚えがある。しかし、そのたびに朝から晩までのたうちまわっていたとは、考えられない……目をしばたたかせるうちに、彼女とまだ抱き合っていることに気づいた。

「わあっ、すみません」

 なぜか謝りながら身を引いた。マツリは笑って立ち上がり、床に転がっているカップを拾い上げた。

「ノタの婆やたちが淹れるものより、キョトン博士のコーヒーはずっと強いようですわ。わたくしなんか、怖くて飲めませんもの」

 これも後で知ったのだが、「ノタ」は占いや売薬で生計をたてている女たちを指すらしい。みずから失われた古代の秘法に通じ、精霊を自在に操るのだと宣伝し、未来を占い、惚れ薬や精力剤など、あやしげな薬を調合する。たいていは老婆だが、若いノタもまれに見かける。

 それまで普通に生活していた女が、ある日突然、何らかの精霊に取り憑かれ、何日も、あるいは何週間も死ぬような思いをしたあと、「ノタ」の能力ちからを身につけるという。

 つまり、どうやらこの世界における「コーヒー」とは、そんな魔女たちが取り扱う類いの精力剤であるらしい。

 いつの間にか外は暗くなっていた。マツリが窓を閉めてカーテンを下ろすと、やがて虫の鳴く声が聴こえてきた。か細く澄んでいて、どこか淋しげな声を聴きながら、秋が近いのだろうかと、タケルはぼんやり考えた。食器を下げて台所へ行くわけでもなく、彼女は粗末な椅子を寝台の近くへ引き寄せて腰をおろした。

 ランプの火影が、彼女の白い頬の上で揺れた。

「やっぱり、なにも思い出せませんの?」

 タケルは半身を起こしたまま、目を固く閉じて、また開いた。次に両方のこめかみを親指でぎゅっと押してみたけれど、過去と今との間に、地上と地下ほどの、はるかな時空が隔たっているかのように、呆然とするばかり。ぽかぽかと自身の頭を叩き始めるのを、マツリが慌てて押しとどめた。

「いけませんわ、ご無理なさっては」

「ですが……」

 このまま「何も思い出せませんでした」で、通用するとは思えない。ミシャの言い草ではないが、おそらく、これまで自身が属していた時空よりも、この世界の現実ははるかに厳しい。武装した密猟者が出没し、子供の命さえ平気で奪おうとする。街は城壁で護られ、よそ者は排除される。曲がりなりにも、かれが手当を受けられたのは、たまたま少年たちを救ったからだ。けれど快復したあと、果たしてこの世界で、身内はおろか過去すら持たない自分が、どうやって生きていけるのか。今は優しげに見える彼女だって、弟の恩にいやいや縛られているだけかもしれないではないか。

「マツリ・ニレ・ヤースタア」

 小さく、歌を口ずさむように彼女は言い、かれの驚いた顔を見て、くすりと肩をすくめた。

「わたくしの名前です。まだ申してなかったでしょう」

「きれいな名前ですね」

 素直な感想だった。再び遠い記憶に触れる郷愁に、胸をしめつけられた。マツリは、けれど痛みを覚えたように、ちょっと眉をひそめた。

「そうでしょうか。この辺りでは、あまり口にしたくない名ですけれど……シュワルツさん、あなたは何とおっしゃるの?」

 つまりフルネームは何かと訊くのだろう。タケルは真っ蒼になって返答に詰まり、次に真っ赤になりながら、苦しまぎれの出まかせを口走った。

「あ、あっ、アーノル、どっ……ど」

「シュワルツ・アーノルさまとおっしゃいますのね。それでしたら、やっぱりトゥエル・バイスンの東の方からいらしたのではないかしら」

「そ、その地方には、そんな名前があるのですか」

「わたくしも幼い頃、吟遊詩人の歌を聞いただけなのですが、素晴らしく強い英雄の名前が、たしかアーノルでしたわ」

「英雄アーノルは、どんな活躍をしましたか」

 幼子に返ったような気持ちで、タケルは尋ねていた。マツリは胸に片手をあて、こほんと咳をすると、大きく息を吸い込んだ。


「アーノルが『裸の英雄』と呼ばれるわけを、これからお話しいたしましょう。

 その人がどこから来たのか、だれも知りませんでした。ある日ふらりと、まる裸同然の姿で、東の小国にやって来たのです。木を伐ったり、田畑を耕す手伝いをして暮らしていました。

 当時、トゥエル・バイスンは群雄割拠の戦国時代です。かれは人一倍体が丈夫なところを買われて、兵隊に入れられました。武器と鎧が支給されましたが、心優しいアーノルは、ぜんぶ貧しい人々に与えてしまいました。

 ときにこの国の王は、三年前、隣の大国との戦争に敗れて捕らえられ、牢屋の中でさんざん苦労したあげく、帰国を許されたばかりでした。恨み骨髄に徹し、怒り心頭に発して、雪辱に燃えています。

 やがて王は軍勢を率いて、国境の山へ向かいました。裸のアーノルも同行させられています。山の上で待ち構えているのは、隣国の大軍です。この一戦で東の国を完膚なきまでに打ち負かし、領土を分捕ってやろうと、虎視眈ねらっています。

 戦闘が開始されました。双方から射られた矢が、雨のように降り注ぎます。けれども裸のアーノルは、まるで鋼鉄の鎧を纏っているように、何百本もの矢を跳ね返してしまうのです。これを見た味方は、わあっと士気を高め、敵は舌を巻きました。

 何ものじゃ、あの男は?

 アーノルの獅子奮迅の活躍を目の当たりにして、隣国の王もびっくり仰天。このままでは形勢不利とみてとると、隣国で一番腕のたつ射手を招き寄せ、

 目だ。きゃつの目をねらうのだ。

 入れ知恵をするのですから、何と悪賢いのでしょう。射手はガッテン承知とばかりに、きりきりと矢を引き絞り、ひゅうっ、と放ちました。

 ぐさり。

 矢はアーノルの左目を、あやまたず射貫きました。ところが英雄アーノルは少しもひるまず、なにくそと踏みとどまると、深々と突き刺さった矢を、みずから引っこ抜きました。やじりから自分の目玉を外し、矢を逆手に持ちかえると、

 ひゅううっ、

 敵の本陣へ向かって、投げ返したのです。

 ぐさり。

 鋼鉄の胸当ての上から、その矢は王の心臓をあやまたず貫いたものですから、どうしてひとたまりもありましょう。王は落馬し、そのまま息絶えました。敵の大軍は大混乱をきたし、アーノルが素手で投げた、たった一本の矢のために、壊走させられました。戦は味方の大勝利。えい、えい、おう、の歓呼の響き。

 けれどもアーノルの姿は、いつの間にか戦場から消えていました。一人静かに山をおりてゆく裸の大男を、何人かの兵士が目撃したばかりで。

 川へたどり着くと、アーノルは片膝をついて、掌の上の目玉を清水にひたし、しばらくそうしておいてから、傷ついた片目に嵌めこみました。するとどうでしょう、何事もなかったように、目はもとどおり見えるようになったと申します。

 それから裸の英雄アーノルの行方は、ようとして知れません」


 語り終えたとき、マツリはなかば立ち上がり、振り回した名残の両手を、宙に浮かせていた。タケルと目が合うと、見る間に顔を赤くして、椅子を蹴倒しそうな勢いで背を向けた。

「いやですわ。ついつい……」

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