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すでに夕方らしい。部屋の中は薄暗く、角灯に灯が入れられていた。オレンジ色の炎が踊り、時おり、じっ、と音をたてると、油のにおいがした。何の油か知れないが、お世辞にも高級品でないことは確かで、ただ、それほど嫌なにおいでもなかった。むしろどこか遠い記憶に通じる、なつかしさを含んでいた。
窓から空は見えないが、煉瓦色をした隣の屋根に残照が映えていた。ここにも夕陽があるのだなと考えて、みょうに心安らいだ。窓は細めに開いているため、かすかな風にのって、とぎれとぎれにもの音が入り込んでくる。窓の下で食事が用意されているのか、鍋釜が触れあい、幼い子供たちがはしゃぎ回り、おカミさんにどやされていた。そんな遠い喧騒が、疲労しきった身体にはなぜか心地よく、またとろとろとまどろみかけた。
ドアの開く音が、かれの意識を部屋の中へ呼び戻した。
「起こしてしまいましたか」
すらりと背の高い、一人の若い女が、木製の盆を手に、たたずんでいた。後で知ったところによると、男はもちろん、ここではたいていの女がかれよりも背が高く、ゆえに彼女がとくに高身長というわけではない。むしろ平均より小柄なくらいらしい。
マツリ姉さん。
ここへ来る途中、デーコがそう口にしていたのが思い合わされた。ならばこのほっそりとした女性が、あのまるまると肥った少年の姉にあたるのか。マツリ、という響きが、狂おしいばかりのインパクトで、かれの郷愁を掻き立てた。
彼女の服装は市のおカミさん連中とさほど違わないが、それでも格別に華やいで見えた。スカーフには洒落た刺繍がほどこされ、髪をすべて覆いかくさずに、艶やかな亜麻色の髪を背中へ垂らしていた。襟もとには赤いネッカチーフが巻かれ、青い石のブローチでとめてあるけれど、決して派手ではなく、褐色の上衣やスカートと巧く調和していた。やはり腰につけたエプロンは、おカミさんたちのそれと違って、魚の臭いもしなければ、染みや焦げ跡もない。スカートはあまり膨らませず、ぜんたいのシルエットが若々しい身体の線にそれとなく沿うよう仕立てられていた。
盆を手にしたまま彼女は数歩あゆみ寄り、かれを眺めて小首をかしげた。硬い木の実を想わせる瞳に心配そうな光が宿り、果実めいた唇が柔和な笑みを浮かべた。
「食事を温め直してまいりましたの。召し上がれますか?」
盆の上で、幾つかの器から湯気が立ちのぼっていた。食物のにおい。ずいぶん昔に忘れていた気がする、心掻き立てるにおいを急に思い出したとき、猛烈な空腹に襲われた。温かいミルクと硬いパン。豆を煮たスープとわずかな干し肉。オレンジ色の酸っぱい果実。目を見張るマツリの前で、それらは器からすでに消えていた。ベッドに半身を起こした姿勢で、かれがあっという間に平らげたのだ。
数度、大きく目をしばたたかせたあと、マツリはこらえきれずに吹き出した。
「ごめんなさい、よほどお腹が空いてらしたのね。おかわりをお持ちしたいのですけど、急に多く食べさせてはいけないって、キョトン先生が仰言いますから」
「あ、ありがとう。おかげでだいぶ楽になりました……」
ここへ運びこまれてから、初めて口をきいたことに自分でも気づき、彼女もまた驚いている様子。
「お話できますの?」
マツリはてきぱきとポットから温かい液体をカップに注ぎ、かれに差し出した。大きくていびつな金属のカップを受け取り、真っ黒い、未知の液体をおそるおそる覗きこんだ。本能的に嗅いでみると、がつんと脳天に響く強烈な臭気に見舞われ、かれは覚えず咳きこんだ。くすくすと、綿のような笑い声が降ってくる。
「食後にお飲みになるようにと」
「これも、キョトン先生とかいう人が?」
「お偉いかたなのですよ、ちょっとお酒が過ぎますし、先生の前では『博士』とお呼びしないとご機嫌を損ねますけど、実際にたいそうな博士でいらっしゃいますから、どんなに複雑なゼンマイ仕掛けでも、たちどころに直してしまわれますわ」
「ぼくは、オルゴールの人形じゃありませんけど」
冗談と受けとったらしく、マツリは口に手を当て、しきりに肩を揺すっていた。かれはかれで、「オルゴール」という言葉が自然に出てきて、しかも彼女にすんなり通じたことに、驚きを禁じ得なかった。
「シュワルツさんって、意外に面白いかたですのね」
目の端の涙を拭いながら彼女は言う。いったいどこがどう面白かったのか、むしろ正論を述べたつもりだったのに……それはそうと、自分がいつの間にか「シュワルツさん」にされていることを、あらためて思い知らされた。自分の名がシュワルツでないことだけは、はっきりしている。そんなごつごつとゴツい名前であろうはずがない。ただ、「シュワルツェネッガー」が何を意味するのか、金属製の強力な武器だったか、恐ろしい怪獣か、どこかの役人か、もはや思い出せないけれど、少年たちにも聞き覚えがなかったことは確かだ。
要するに、シュワルツェネッガーは「この世界」には存在しないのだ。少なくとも、「この地方」にはと言うべきか。
それはおそらく、かれがやって来た世界に属していたのではあるまいか。かれは自分自身に、二つの根本的な疑問を問いかけてみた。
ぼくはどこから来たのか?
ぼくは何ものか?
夢の中で、ぼくはたしかに、「タケル」と呼ばれていた。
あの夢で見た世界から、ぼくは来たのだろうか?
「どうなさいましたの? もしそんなにシュワルツさんがお厭なら、無理にお飲みにならなくても……」
我に返ると、マツリの心配顔が間近にせまっていた。彼女の瞳は、やはり硬い木の実のような褐色に潤って、しかも寒冷地の湖のように澄んでいた。かすかな吐息が頬にかかり、朝摘みの果実を想わせる甘やかな香りが漂った。
これはこれで、また別の夢をみているのではあるまいか?
「い、いえ、飲みます、飲みますとも。なんだかぼくの身体が、飲めと言ってる気がします」
強烈な臭気ごと、おもいきりカップを傾けた。地獄の釜で茹でたような味はともかくとして、ほどよく冷めていたので一息に飲みほすことができた。炎の塊を飲み込んだ気がした。まず内蔵が燃え上がり、たちまち手足の先まで燃え広がった。巨大な斧で頭蓋骨の内部を立て続けにぶん殴られたような衝撃が走った。
「ほげえええええっ」
「えっ、え、ちょっと、だいじょうぶですの? シュワルツさん!」
カップを床へ放り出し、波と化したようにうねり、のたうちまわるかれを、マツリが懸命に抱きとめようとした。もはや身体の内部はすべて炎と化し、至る所で小爆発を繰り返していたが、不思議とほとんど苦しくはなかった。むしろどちらかというと心地よいくらいで、夢のように柔らかな堆積物にのしかかれ、しきりに耳もとで「シュワルツさん」と呼びかくてくる、天上的に高く澄んだ声を聞きながら、かれは……タケルは、しばらく自分はシュワルツさんでもいいだろうか……と、ぼんやりと考えた。




