ショコラと貴婦人(12/13)
ディーネが敵対していたヨハンナに頼み込んでまで実現したかったこと。
それは帝国内の文化水準の向上だ。
化粧水の作り方は化学にも通じる。
バームベルクの帝都周辺では魔法まじりの医薬品がそれなりに流通しているが、辺境の砦なんかだと、城主夫人が作ったお手製の薬や化粧水がその村で一番の先進医療、なんてケースも少なくない。
たとえば怪我の治療をするときは細菌の二次感染に注意して、必ず手指を消毒してから患部に触れるべきだが、バームベルクでは認識がまだまだあやふやだ。『とりあえず魔術で精製した水で清めておけば問題ない』などと思われていたりする。魔法で生み出した水は純水に近いようなので、当たらずとも遠からずといったところだ。医療水準がそれほど高くないのに、なんとなく新生児の死亡率が低かったりして、全体的に患者の予後がいいのは、もっぱら田舎の村の司祭がうろ覚えの魔法で作る聖水などのおかげなのである。
それはさておき、正しい化学知識が広まるのはものすごく大きなメリットだ。
「せっかくいいものを開発したのですから、皆さんに使っていただきとう存じます。できれば、貴族の皆さんだけではなく、帝国の方々すべてに」
「は? ……またえらく大きく出たわね」
「皇宮にお集まりの皆さんのご協力があればきっとできると思いますわ。それには、どうしてもお義姉さまの協力が必要なのでございます」
本来、宮廷というのは貴族が遊んで暮らすだけの場所ではない。
そこで政治が行われ、あらゆることについて絶えず議論が生じるので、自然と最新の文化が持ち込まれるようになる。
サロンに集まる一流の科学者や数学者たちの議論が文化の発展に大きく貢献する――というのが地球史での先例だったのである。
ヨハンナたちが主催する皇宮の集いだって、文化的なサロンに発展するための下準備は十分にできている。
そろそろ下ネタばっかりの状態から一歩進んだっていいはずなのだ。
「化粧水だけと言わず、薬や固形のチョコレートも……皇宮のみなさんでわいわい作ったら、きっと楽しいと思うんですの」
「へえ? 固形のチョコって自分で作れるの?」
「もちろんですわ! 完璧なものは手作業では難しいかもしれませんけれど、製法を覚えて、ご自分の領地で作っていただいても結構ですわ」
ヨハンナは苦笑した。
「それはやめておくわ。わたくしもうショコラはこりごりなの」
ずいぶん砕けた言い方だったので、ディーネはなんだかうれしくなってしまって、先ほどからヨハンナがひっきりなしにつまみ食いしているカカオマスを指さした。
「わたくしのところのショコラは安全安心なのですわ」
「分かってるわよ。うるさいわね」
怒っているような言い方ではあったが、おそらくそれは照れ隠しなのだろう。
ヨハンナとの和解が部分的に成立したのは、このときだった。
***
よく晴れた日の昼下がり、皇宮の庭で。
美しいドレスにエプロンというちぐはぐな格好の貴婦人たちが、それぞれ特設の天幕の下でわいわいがやがや遊んでいる。
鉱石をすり潰している人もいれば、薬草を鍋で煮ている人もいる。
第一回・手づくり化粧水教室である。
先生はヨハンナだ。ディーネは機材の調達や設営で駆けずり回っていたので、講座の様子までは詳しく見ていない。
ただ、話し上手で人望もある彼女なので、大きな失敗はしないだろうと思っている。
なんとなく楽しそうな貴婦人たちを遠くから眺めて、ディーネは満足した。
この機会に皇宮も変わってくれるといいんだけどな、などと思いつつ、その場を離れた。
その日の夜に母親のザビーネから声をかけられた。
「今日の催し物、なかなかよかったわよ」
それからくすくすと笑う。
「……まさかあのヨハンナを手なずけるなんてねえ。ベラドナちゃんもびっくりしていたわ。あなた、もしかしたらわたくしよりも人あしらいの才能があるのかも?」
「いえ、それは褒めすぎというものですわ、お母さま……」
実を言うとヨハンナの変わりように一番びっくりしたのはディーネだったりする。もう一度同じ条件でトライしたとしても同じ結果が出るのかどうか。何かいろんな偶然が重なってたまたま判定に成功しただけなのではないかと思わざるを得ない。
「あなたもいつの間にかこんなに大きくなっていたのねえ……」
しみじみと言うザビーネの肌は十八の小娘のようにつるんとしている。童顔なので一層奇妙な感じがした。
「まだちょっと早いかもしれないけれど、ディーネちゃんはしっかりした子だからきっと大丈夫ね」
「なんのお話ですの、お母さま?」
「あなた、そろそろジージョさんから宮中での会話術を教わるようになさいな」
「宮中での……?」
「そうねえ、具体的に言うと、皇太子殿下とのお付き合いをからかわれたときのウィットに富んだ返し……などかしら?」
ディーネは顔が引きつるのを感じた。
つまりそれって、八割下ネタのあのバラエティ番組みたいなトークということだろうか?
そんなもの絶対に学びたくない。というよりむしろ、どうしてそんなものをジージョから学ばねばならないのだろう?
「……ジージョはそういうキャラじゃなくない?」
「あら、あの方、先代皇帝の宮廷でも一、二を争う人気の才媛だったのよ。『皇帝陛下のコカトリス』のお話なんか伝説級の語り草なんだから」
タイトルだけでろくでもなさそうだと察せられるのが恐ろしい。
「淫らなソネットの即興詩のひとつも読めないようでは一流の貴婦人とは言えないわ」
「淫らな」
やっぱり宮廷はどうしようもなかった。
「もちろんあなたがちゃんと結婚をするまでは……と思っていたけれど、あなたは特別に賢い子だもの、そろそろ大丈夫ね」
「で、でも、私まだ子どもでいたいっていうか……」
「むしろ遅すぎたのかもしれないわ。今まで何も教えずにいてごめんなさいね」
「お母さま……」
母親から成長を認められて、感動する場面だというのに、ディーネはちっともうれしくなかった。
ひとつ、とてもいやなことに思い当たる。
ザビーネがよく桂冠詩人を招いて自宅で何かをやっていることはディーネも知っていた。
「……お母さまも……その……詠んだりなさるんですの? ……淫らなソネット……」
ザビーネはふふっとごまかすように笑った。
目を細めて「聞きたい?」と逆に問う。
「いいえ! いいえ!!」
母親の飛ばす下ネタ。うっかり聞いてしまったら三日は寝込みそうだ。
「でしょうね。ジージョさんの言うことを聞いておいたら間違いはないから、しっかり励んでちょうだいね」
優雅に去っていくザビーネの後ろ姿を見送って、ディーネは固く決意した。
――絶対に、私の代で宮廷も変えてやるんだからね!!
ディーネの宮廷における戦いはまだ始まったばかりだ。彼女の力を信じて――ご声援ありがとうございました。
●新生児の死亡率が低かったり
”周産期の死亡を見積もるもう一つの方法は、新生児死亡率すなわち出生後の一か月間の死亡率を計算することである。それは一〇パーセントから二〇パーセント程度である。”(P151)
”今日生まれる一○○人の子どものうち九九人以上が一○歳に達するのに対して、一七、一八世紀には平均で五三人しか達しない。いいかえれば、生まれてから一○歳の誕生日までのあいだに、半数近くが死んでしまうことになる。”(P178)
引用元:アンシアン・レジーム期の結婚生活 フランソワ ルブラン
◆参考
出産時の女性が命を落とす産褥熱の割合について
”医学知識とくに消毒に関する知識が、このように致命的に不足していた。その結果は、小教区帳簿の埋葬記事のなかに読みとれる。分娩中および分娩直後の女性の死亡はたいへん多かった。”(P150)
ひとりの女性が生涯に産む子どもの数について
”二五歳から四〇歳までの一五年ほどの結婚継続期間に、平均して七人ないし八人の子どもが生まれる。女性の初婚年齢がまさに当時の「真の避妊手段」だったことが理解できる。”(P139)
”一七、一八世紀のフランスにおける平均初婚年齢は、都市においても農村においても、男性で二七歳~二八歳、女性で二五歳~二六歳である。このような晩婚傾向は、一八世紀を通じて強まるばかりであり”(P39)
※引用者注:中世ヨーロッパの真の避妊方法は「結婚を遅らせること」だったとする統計結果です。
”つまり、婚姻年齢が高くなると、女性の出産可能期間は、思春期に結婚する場合にくらべて数年分も、いや一○年分も、短縮されるからである。”(P40)
貴族の平均初婚年齢は”男性が二一歳、女性が一八歳”だったそうです。(P38)
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以上を踏まえるとリアル中世の貴族女性は
平均十八歳で結婚したら二、三年おきに平均十人の子を産み、
その子のうち半分は死亡し、自身も産褥熱で亡くなる確率が高い(数値は算定不可)
…はずなのですが、夢がない、あるいは衛生面の描写で引っかかるという理由で魔法の設定を使用しています。
産褥熱について
”なんということだ!! 妊婦を殺していたのはわれわれの「手」だったのかぁっ!!”
まんが医学の歴史 茨木 保(P193)
※医者が消毒されていない手で触れたために産褥熱を起こして命を落とす女性が多かったというエピソードですが、衛生面で引っかかるために今後もうちの話で詳しく書くことはありません。
●淫らなソネット
有名な詩作家としてはフランスにピエール・ド・ロンサールなどがいます。
” 体に触られるのがいやなんだね
でもきっと君をこの手で捕まえ
君の口に轡をあてがって
動けないようにしてやるから”
ロンサールのオードから「おてんばな子馬」Odelette a une jeune maitresse(壺齋散人訳)
引用元URL:http://poesie.hix05.com/Ronsard/ronsard05.jeune.html
◆参考
雅歌 一部抜粋
”喜びに満ちた愛よ
あなたはなんと美しく楽しいおとめか。
あなたの立ち姿はなつめやし、乳房はその実の房。
なつめやしの木に登り
甘い実の房をつかんでみたい。”
(快楽の中世史 P99)
”十二世紀の宮廷風恋愛の時代に、雅歌は旧約聖書の中で最も多くの注釈がほどこされた書物となった。”(快楽の中世史 ジャン・ヴェルドン P101)
※雅歌は聖書の一部で、史上もっとも有名な色っぽい詩です。(ソネットではありませんが)
その他、中世の有名な艶歌としてはアリエノール・ダキテーヌの祖父、ギョーム九世(1071年-1126年)の詩が存在します。




