七月・八月・九月の売上をまとめましょう
バームベルク公爵領の長女、ウィンディーネ・フォン・クラッセンは前世の記憶を持っている。
記憶を取り戻す以前の彼女は婚約者の帝国皇太子、ジークラインを中心に世界が回っていた。
彼に気に入られるようよく学びよく働き、まめに手紙を書いては手作りのものを差し入れる毎日。せっせと神に祈り、綿入れの刺し子をし、愛らしくマナーのよい淑女になろうと努めてきた。
生活が一変したのは記憶が戻ってからだ。
――あれ? もしかして私、こいつと結婚しなくてもよくない?
クラッセン嬢は物心ついたころからずっとよき皇妃となるように特別な教育を受けさせられており、そのプレッシャーも大変に大きなものだった。何しろ彼女の婚約者は天才と名高い皇太子。『数多の戦場の覇者』『二人といない帝王の器』と賞賛されてきた婚約者に比べて、彼女はあまりにも気弱すぎた。人の前に出るのが苦手で、注目を浴びるのはもっと苦手。大きな式典の前には明日雨が降って中止にならないかなと、運動会を毛嫌いする子どものようなことまで思う始末だった。
結婚後の生活などにも不安があった彼女は、婚約の破棄を願い出る。本気にしなかったジークラインから、持参金大金貨一万枚を稼げたら考えてもいいという言質を取ることに成功。
およそ達成不可能かに思えるこの約束を取り付けたのは、勝算があったからだった。
そこで彼女はこの半年あまり、せっせと商売にいそしんだ。
***
十月一日。
家令のハリムと執事のセバスチャンを集めての定例会議。
「七月、八月、九月は、第一四半期と同じ内容、同じ規模の商業活動を行ないました」
家令のハリムが言ったのを受け、ディーネはまとめられた数字に目をやった。
「三か月で1971枚の純利益を達成。予定よりも金貨で二百枚ぐらい多いわね」
「セバスチャンの功労賞でしょう。屋敷の執事業の後任が見つかっていないながらも、よく働いてくれましたので」
「はい。楽しく働かせていただきましたので」
セバスチャンがにこりとほほえんだ。
――かわいいわぁー……
セバスチャンにはどこか人を和ませてしまうような雰囲気がある。仕事を放棄して休憩モードに入ってしまいそうになり、ディーネは慌てて表情を引き締め、帳簿に視線を戻した。
「六月までの純利益が4,010枚だから、合わせて5,981枚ね」
「順調ですね。目標は確か、大金貨で一万でしたか」
「このペースでいけば、三月末までには大金貨で一万を達成する見込みでございます」
ディーネは重々しくうなずいた。
そうなのである。
実は七月の時点で、現在の事業だけで十分達成可能だと分かっていた。
夏の三か月はその予測通り、おおよそ金貨二千枚を稼ぎ出した。現状を維持していれば期日には間に合うというのが、セバスチャンとハリム、ディーネの共通見解だ。
それゆえにディーネは、七月、八月、九月と、三か月かけて領内の公共事業や帳簿の整理に乗り出していたのだが――
「じつは、残念なお知らせがあります」
ディーネにはまだ二人に伝えていないことがあった。
「こないだ、ジーク様と喧嘩をしました。それでつい、競馬場の土地なんかいらないわよ、と言ってしまって……土地を買い取る金額も上乗せで稼がなきゃいけなくなってしまったの」
ハリムの顔が一気に険しくなった。
「しかしあの土地は……」
「分かってる、あれ、大金貨で三千枚査定なのよね?」
大金貨とは帝国が発行している最高額の貨幣で、わずか一枚で庶民が数か月暮らしていけるほどの大金だ。それが三千枚ともなれば、そう簡単に稼ぎ出せる金額ではなくなってしまう。
九か月分のレンタル料についてはとくに何も言及してないので、この際なかったことにしようとは思っているが。
「春の三か月で稼いだ金額にもらった土地の資産価値も含めていたから……あらためて金貨三千枚と少し稼げる商売を見繕わないといけないってわけ……」
けっこうな大金だ。
「あてはないこともないのよ? 南の淡水湖のあれとか……」
「ああ、あの……」
淡水湖で行なっているのは、真珠の養殖実験だ。巨額の投資をした事業だから、秘密裏に進めていきたかった。
ハリムにだけ通じる話をしてしまい、セバスチャンには悪いと思ったが、情報はむやみに回さないほうが事業では成功しやすい。いつどこで誰に漏れてしまうとも限らないのだ。
「そっちはそっちとして、今月からまた新しいビジネスを考えていくつもり。最近手に入った設備を流用できたらいいわね」
ディーネが夏の公共事業で新たに取得した設備は建設中の紡毛工場が十か所。
それと、つい数日前に手に入れた印刷機が六台だ。
ただし印刷機はゼフィアと共同して慈善事業に使う予定のため、商売に流用するのはまだまだ先のこととなりそうである。
紡毛工場は週に一基のペースで増やしていけるとのことだったので、来週ぐらいから働く人員をそろえて訓練していく。
正式な稼働は様子を見ながら決定する。
「この工場はね、ちょっとすごいのよ」
設備投資費用もそれなりだが、利益もそれなりである。
「ちょっとまだ試算の段階でてこずってるけど……とにかくすごいのよ」
機械制の大規模な工業化といえば、地球史では産業革命期まで待たねばならなかったが、いくつかの条件が重なることにより、奇跡的に中世の文明水準で早々に実現させることができたのだ。
なので、ディーネがよほどめちゃくちゃな手を打たない限りは絶対に大成功するはずだった。大英帝国ならぬ大バームベルク帝国が勃興する日も近いのである。
それだけの可能性を秘めている機械だけに、恐ろしいのが産業スパイだった。
水力紡績機の技術は、実はそれほど難しいものではない。バームベルクに存在していた機械類の機構だけで十分に再現が可能であった。
歯車滑車と、複数の糸つむぎを同時に行う足ふみペダル式の糸車、エスケープメントと呼ばれる反復運動の機構。
このくらいのものであれば地球史でも中世末期にはそろえられる。
単純なカラクリ仕掛けに集約される糸紡ぎの作業がずっと古代さながらの手作業に任されてきたのは、糸巻きを担う女性たちの賃料が安く、いくらでも働き手が見つかったからなのである。
難しい技術ではないだけに、条件がそろえば技術の盗用はありうる。
逆に言えば再現可能な技術でもあるということなので、こうして量産化のめども立ったわけだが。
「あとね、まだ開発中だけど、食品のほうでも少し面白いものが作れそうなの」
この世界に冷蔵庫は普及していない。そのため、乳製品には主に有塩の発酵バターを使用せねばならず、お菓子の味が大きく変わってしまうのがネックとなっていた。しょっぱくて、コクが深いといえばいいのだろうか。
ケーキの味が塩気で台無しになってしまうのはいただけない。
ちょっと変わったアプローチを取ることにより、この問題も解決の目途が見えてきた。
「まだまだやろうと思えばいくらでも資金稼ぎの算段はつけられるから、あんまり心配はしてないのよね。問題は……」
さしあたって一番の心配ごとに、ディーネは視線を向けた。
「あなたたちの労働時間が労働基準法を超えているってところなのよね」
「それは一体どこの法律ですか?」
ハリムは不思議そうな顔をした。彼は各地の紛争、裁判も管轄している。なので法律にも詳しい。
「気にしないで。まだ私の中にしかない法律だから」
「はぁ……」
もともとこの世界に労働基準法の概念などはない。日がのぼったら働き、日が沈んだら帰って寝る。
ところがこのふたりは日が沈んだあともずっと働いているのである。
セバスチャンなどは下手をすると終課(午後九時~十時前後。ディーネは就寝の時間だ)の鐘が終わっても晩餐会の後片付けをしている。それで翌日、パパ公爵が起きだす三時課の鐘の後(おおよそ十時前後。貴族の午前は遅い)にはすでに就業しているのだから危険だ。
よくこの労働条件で働く気になれるなとディーネは感心するぐらいなのだが、彼は条件について文句をつけたことなど一度もない。素で常人の三倍ぐらい働き、さらに常人の三倍ぐらい仕事の効率もよいのであった。日本人か。
ハリムもなかなかひどい。彼は公爵領全体を監督する家令で、使用人の中ではもっとも偉い。すべての実務に口を出す権限を持ち、それらに対して責任を負っている。
パパ公爵があの新しい武器がほしいとだだをこねれば資金を捻出し、各地で問題が起きたとなれば飛んでいく。牛の飼い方からワインの出来高まで、領地経営のすべてはハリムにかかっていると言っても過言ではない。公爵領には貴族や高位の騎士なども多数在籍しているが、ささやかな農地を持っているだけ、あるいは領地なしの弱小貴族である彼らとは比べ物にならないぐらいの職業的特権をハリムは持っていた。
彼らに代わる人材を見つけるとなると難しいが、補佐役ぐらいはいてもいいだろう。
「さしあたっては人を増やさないとね……お母さまにお願いをしないと」
――おおまかな方針が決まり、売上の報告会は終了した。




