教皇の甥/バームベルクの小宮廷
バームベルク公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンは、幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
特に語学はみっちりとやらされた。皇太子妃として外交の場に立つとき、通訳がいないと意思疎通できないようでは困ってしまうからだ。
教会の典礼言語を教えてくれたのはバームベルク大学の神学部教授、ベルナールだ。彼は著名な学者として知られているが、鬼のようなスパルタ名コーチとしても有名だった。
幼いクラッセン嬢の家庭教師として公爵家の小宮廷に食客に招かれたベルナールは、空き時間に大学の生徒たちも見ていた。人気のある先生だから、クラッセン家の屋敷には、大学の生徒がいつも集まっていたのを覚えている。
生徒のうちのひとりに、未来のゼフィア大司教主となるエストーリオもいた。
白銀の髪とまったく焼けたところのない透き通った肌を持つエストーリオは、よくも悪くも目立つ存在だった。まず、出自が他の者とは違う。教皇の甥――聖職者は結婚ができないから便宜上甥とされているが、本当は教皇が奥方に産ませた直系の後継者なのだ。彼は十歳の若さで小さな教区の司教主に叙階されており、体面上もすでに立派な高位聖職者だった。
彼ほどの人物であれば、わざわざベルナールに師事を仰がずとも、学部を卒業することはできたはずだ。なのになぜか彼はベルナールとともに公爵家の小宮廷に逗留するほうを選んだ。
クラッセン嬢ははじめ、エストーリオを女性だと思っていた。中性的な面立ちによく似合う、長く引きずる裳裾の服は女性兼用のローブで、しかも彼は美しい銀髪を長く伸ばしていたから、判別がつかなかったのだ。
初顔合わせのときのエストーリオは絢爛豪華な出で立ちもあいまって、おとぎ話のお姫様のようにきれいだった。
繻子の上から羽織った、まばゆい銀糸のストールには見事なブローチがついていて、ひと粒の大きなサファイヤが目にも綾な光をはじいている。サファイヤは誠実さの象徴で、聖職者が好んで身に着ける石だ。尊い血筋の彼にふさわしい、国宝級の品だった。
「初めまして」
目の前の稀なる美人から、やや高めではあるものの、れっきとした男性の声がして、クラッセン嬢が戸惑っていると、父が「習ったやつをやってごらん」とやさしく諭してくれた。それでベルナールに教わったばかりの典礼言語で挨拶をして、彼が許してくれた右手の指輪におっかなびっくりくちづけをしてみると、エストーリオはこちらが幼い子どもだというのにも関わらず、丁寧かつ親切な態度であいさつを返してくれた。クラッセン嬢はやわらかな物腰の青年から受ける淑女扱いと甘やかしにすっかり警戒心を解かれてしまい、つい彼と話しこんでしまった。
エストーリオはベルナール教授の生徒とはほとんど交流がないようで、中庭で静かに本を読んでいる姿がしばしば目撃された。将来は教皇位につくことも確実だと思われている彼に近づきたい生徒はいくらでもいたが、彼のほうが近寄らせないらしい。
そのうちに、エストーリオが人を避けたがる理由が判明した。
彼はとても強力な神力の使い手で、触れただけで相手の思考が読み取れるほどだという。彼はその力を厭い、従者でさえも近寄らせないのだということだった。聖職者が操る魔術は魔術と呼ばず、一般に『奇蹟』や『神力』などというのだが、原理は一緒である。
ディーネはいつも寂しそうにしている彼が気になって仕方なかったが、理由が分かったあとはますます彼に同情するようになった。きっと彼は、人の本音が見えてしまうのが辛いのだろう。そして他人は彼に本音を看過されることを恐れて遠巻きにする。なんて寂しい悪循環なのだろうと思った。
そんなエストーリオも、幼い少女相手なら少しは緊張が解けるようで、しょっちゅうクラッセン嬢の遊び相手になってくれた。トランプの束から選んだカード当てに始まり、数字当て、晩御飯当て、その他ありとあらゆるものをピタリと当ててみせた。力は本物だったのだ。
彼はその特殊な力で、悩み相談にも乗ってくれた。
――あなたはとても心の美しい方ですね。透き通っていて、やさしく温かみのあるあなたの心に触れていると、私まで癒されます。
清廉な印象の美青年が微笑んで言うので、クラッセン嬢は大いに戸惑った。いつも余裕がなくてくよくよ悩んでばかり、心の中は不安や劣等感でいっぱいの自分が美しい心の持ち主だとは、どうしても思えなかったのだ。
――ですが、人にたくさんのものを分け与えようとしすぎて、疲れているのではないでしょうか。
彼の言葉はとても胸に沁みた。
――人よりも繊細で真面目だから、思いつめてしまうんですよ。
彼の言うことが正しいと感じたわけではなかったが、ジークラインのためにもっともっとがんばらなければと焦ってばかりいたクラッセン嬢は、ふいをつかれて泣いてしまった。
温和で礼儀正しい人だったので、クラッセン嬢は彼に多大なる好意を寄せていた。
しかし。
ディーネがいつも通り話を聞いてもらったある日、ジークラインがやってきて、どこで何をしていたのかと聞いてきたのが、彼との関係が終わるきっかけになった。大好きな皇太子殿下がわざわざご足労くださったことでいとも簡単に舞い上がり、クラッセン嬢は大喜びでエストーリオのことを報告した。
すると、クラッセン嬢の話をすべて聞き終えた彼が言ったのだ。
――そいつとはもう関わり合いになるな。
クラッセン嬢は一も二もなく、盲目的に従った。妬いてもらえたのがうれしくてしょうがなかったのである。
エストーリオはしばらく寂しそうにクラッセン嬢を目で追いかけていたが、それだけだった。孤独を愛する彼はひとりきりの読書に戻り、信じられないスピードで卒業試験に受かって、公爵家を去っていった。
すべては懐かしい、遠い日の思い出だった。




