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94、苦しい

 気がつけば塔の自室にいた。ルーナディアと何と言って別れたかも、どうやって帰ったのかも、覚えていない。


 しばらくそのままぼんやりとしていたが、外を見るとすでに真っ暗だった。いつの間に、と考えるがうまく思考が回らない。


 自分の身体の動かし方を忘れたようで、オクルスは腰掛けているベッドの近くの壁に身を預けた。ひんやりとした壁に少しだけ頭は冷えるが、それでも心に穴が空いたような感覚は消えない。


 こんこんとドアを叩く音がした。返事をするのも億劫で黙っていると、勝手に扉が開かれた。


「オクルス。さっきから上の空で。どうしたんだ?」

「エストレージャ……」


 エストレージャはオクルスが魔法を使えるようになるまでは城にいてくれるらしいが、もしオクルスが余計なことをしなければ、エストレージャは今、王城で「いつも通り」の生活ができていただろうか。ここにいることに違和感がないくらいの今とは大きく違っていただろう。


 エストレージャを見ながらそんなことを考えていると、近づいてきた彼が顔を覗き込んできた。相変わらず美しい金の瞳がこちらを見ている。


「体調が悪いのか?」


 彼の口から出たのは、やはりオクルスを気遣う言葉だった。エストレージャの服の裾を引っ張ると、彼はオクルスの隣に座った。


 エストレージャの顔を見ない状態のまま、オクルスは少しずつ話を始めた。


「今日のルーナディア殿下との話の内容は知ってる?」

「……まあ、一応。姉上の話は、知っているが。それをなぜお前に言ったかは知らない」


 ルーナディアはエストレージャにも言ったのか。信頼ができて、頼りになる男だ。打ち明ける選択は最適だろう。


 ――オクルスもエストレージャに打ち明けていれば、何か変わっていたのだろうか。


 オクルスが黙り込むと、エストレージャの気づかわしげな声がした。


「オクルス?」

「……私も、少しだけ前世の記憶があるんだ」

「……そうか」


 思ったより、すんなり言葉が出た。こんなに打ち明けるのが簡単なのか、と自分で驚愕するほど。


 心の中に重しが増えた感覚に顔を顰めながら、オクルスは端的に伝える。


「その未来は、私にとって望ましくないものだった。だから変えようと思ったんだ。ヴァランにわざと冷たくして、それを必要なことだからと無理矢理自分を納得させていた」

「……」


 エストレージャがルーナディアからどこまで聞いたのかは知らない。オクルスの話す内容を理解しているかもしれないし、彼は疑問に思っているかもしれない。それでも黙って聞いてくれているから、オクルスは続けた。


「エストレージャ。私は、自分のしていることが意味あることだと思っていたんだ。傲慢にも救いになると思っていたんだよ」


 本当に、傲慢だった。オクルスより、ルーナディアの方が上手くできていただろう。それなのに、オクルスは介入をし、未来を未知へと変えてしまった。

 

「それは全部意味がなかった。むしろ、状況を悪化させたかも。そして、本来なら得られたはずの幸福を、捨てた」


 ヴァランに冷たくしていなければ。オクルスはどんな時間が送れていただろうか。


 ヴァランと笑い合って、一緒に遊び、互いに学んで、楽しい話をたくさんしていたのかもしれない。


 そんな、素晴らしく幸福な時間を送れていたのだろうか。


 苦しい。苦しくてたまらない。ヴァランを苦しめたことが全て無駄だった。オクルスはもっと上手くできていただろうに。


 そして、それを苦しいと思う自分が余計に愚かしい。加害者のくせに、そんな被害者のようなことを考えるなんて心底ばからしい。そう理解しているのに、じわじわと心が締めつける感覚は止まらない。


「ねえ、エストレージャ。どうしたら良かった? どうしたらいい? 助けて」


 目の前が少し滲んでくる。エストレージャはしばらく何も言わず、沈黙が流れた。少しして、背中に温かい手が当てられる。

 

「……過ぎたことは、やり直せない。そうは言っても、仕方がないと割り切ることもできないんだろう?」

「……うん」


 エストレージャの静かな声に、オクルスはすぐに頷いた。


 過ぎたことはやり直せないことは承知している。それでも、気持ちを上手く処理できないのだ。


「……お前なりに、頑張ったんだろう。それを責めなくても良いんじゃないか」

「……」


 エストレージャの優しい声にオクルスはしばらく黙っていた。


 エストレージャはオクルスに甘い。それを知っていても今はその優しさに縋りたくなってしまう。


「……エストレージャ」

「なんだ?」

「背中を、貸して」

「……ああ」


 エストレージャがこちらに背を向けてくれた。オクルスはエストレージャに縋るように泣いた。エストレージャの服を濡らしてしまって申し訳ないと思うまで大分時間がかかった。


 しばらくして、落ち着いてきたオクルスが顔を上げると、エストレージャが扉の方を見ていることに気がついた。


「どうかした?」

「……あー、いや。なんでもない」

「そう?」


 理由はなかったのかもしれない。オクルスに泣かれて、その場を立ち去れないのが気まずかったのだろう。申し訳ない気持ちが広がる。


 エストレージャから離れたオクルスは、じわじわと頬が熱くなる感覚がして、片手で顔を覆った。


「ごめん。ありがとう」

「少しは助けになったか?」

「うん、ありがとう」

「そうか」


 少し沈黙が流れる。エストレージャが迷った顔をしてから、やがて立ち上がった。


「悪い。用事を思い出した」

「……本当に、ごめん」

「いや、たまたま思い出しただけだ」


 忙しいエストレージャを付き合わせたことが申し訳ない。オクルスが目を伏せると、ぽんと頭に手を乗せられた。


「それじゃあ、ゆっくり休めよ」

「ありがとう」


 本当に王子様みたいな人だな、と思いながらオクルスは口元を緩めた。弟のように扱われている気がするが。それでも先ほどよりはるかに心が軽くなったのは確かだ。


「寝ようかな」


 今日もよく眠れそうな気がした。オクルスは浅く息を吐いたあと、就寝の支度のために立ち上がった。

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