87、引退の話
ヴァランがオクルスの部屋の扉を開くと、2人は会話を止めたようだ。妙な沈黙が広がる部屋に、ヴァランは問いを投げかけた。
「どうかしましたか?」
オクルスとエストレージャを交互に見渡すが、2人とも困ったような表情をしているだけだ。オクルスがエストレージャのことを軽く小突いた。
「ほら、王子様。声が大きいって」
「お前……。自分の言っていることが分かっているのか?」
いつものように柔らかい話し方をしているオクルスと、どこか焦りを浮かべているエストレージャ。それを見ると、少し心がざわついた。
この感じは、オクルスがまたエストレージャのことを振り回しているのだろう。そんな予想を立てながら、ヴァランはオクルスをじっと見た。
「オクルス様?」
「なんにもないよ。王子様。感動の親子の対面を邪魔しちゃだめだって」
「……」
エストレージャが無言でオクルスを睨んでいる。オクルスに尋ねても教えてくれなさそうだと悟ったヴァランは、エストレージャに視線を移した。
「エストレージャ様、教えてください」
少し躊躇したエストレージャだったが、ぼそりと呟いた。
「……こいつが、大魔法使いを引退するって言い出しただけだ」
「……え?」
エストレージャの言葉を理解してすぐ、ヴァランはオクルスの方を向くと、彼は困ったように笑っていた。
「もういいかなーって」
「え」
呆然としているヴァランをみて、オクルスは罰が悪そうに視線を外しながら行った。
「特に続ける必要もないかなって」
なんだろうか。自分の人生を清算していっているように見えて。ヴァランは恐ろしくなった。どこか清々しそうなオクルスを見て、エストレージャが呟いた。
「……絶対止められるぞ」
「誰に?」
「いろんな人に」
ヴァランもそう思う。エストレージャに心の中で同意をした。エストレージャの言葉に、軽く笑ったオクルスがエストレージャの顔を覗き込んだ。
「エストレージャ。君はどう思うの?」
その呼び方に、ヴァランはびくっと肩を揺らした。「王子様」ではなく「エストレージャ」と呼ぶときのオクルスは、身動きが取りにくくなるほどの真剣さがある。
しかし、エストレージャはそう思っていないようだ。苦い顔をしながら言った。
「考え直せ」
「ええ……?」
オクルスが困ったような声を出しているが、おそらくこの場で困っているのはエストレージャの方だろう。
ヴァランがオクルスの方を見ていると、その視線に気がついたようで、彼は軽く首を傾げた。ヴァランは頭に浮かんでいた疑問を口にする。
「オクルス様、苦労して大魔法使いになったんじゃないんですか?」
「まあ、少しは苦労したけれど。別に思い入れはないからね」
オクルスらしい、といえばそうだ。オクルスは自分の手にしたものに固執しないのだろう。でも、彼が相当努力して手にいれたものを簡単に手放すのは、納得しがたかった。
「そもそも、大魔法使いって引退できるんですか?」
「できるんじゃない? 無理矢理縛り付けて仕事をさせて恨まれても困るから。そうでしょう、王子様?」
「そんな明け透けに……。まあ、間違ってはいないが」
たまにオクルスはそんな話を教えてくれる。大魔法使いを国外に流出させないために、国がどう考えているのかの予想を簡単に口にするのだ。実際、外れていないのだろう。エストレージャが気まずげに肯定しているのだから。
「やめないでほしいです」
オクルスの意思は大事ではあるが。それでも、今引退を言い出した理由は予想がついてしまう。ヴァランはオクルスに懇願をした。オクルスがヴァランの願いに基本的には弱いことを知っているから。
オクルスは困ったように手を頬にあてながら言う。
「えー、駄目かな?」
「……魔法が使えないからですよね?」
オクルスが急に言い出した理由は、悩むまでもない。魔法が使えないから、引退をすることに決めたのだろう。今、魔法が使えない。いつ使えるようになるかも分からないし、一生戻らないかもしれない。そんな中で、オクルスは思いつきを言葉にしたのだろう。マイペースのオクルスらしい。
ヴァランは確信を持って尋ねたが、オクルスはふいと目を逸らした。
「まあ、それもあるけれど……」
「それ以外、何があるんですか?」
「……」
今、オクルスが大魔法使いを辞める理由はどこにもないのだ。本来ならば。
ヴァランが追及すると、オクルスは黙り込んでしまった。薄桃色の瞳を僅かに動かして考えているようだが、言い訳が思い浮かばないのだろう。
「……ごめんなさい」
「ごめんね。君に、謝らせたかったわけではないんだ」
それは知っている。だからこそ、オクルスは最初、ヴァランに誤魔化そうとしていたのだろう。それでも、謝らずにはいられなかった。
「まあ、今すぐは辞めないよ。多分。引退の準備をしていこうと思っただけで。国政に関することなら引き継ぎもあるし」
「……」
オクルスにとって、大魔法使いがどのようなものか。ヴァランはオクルスの手記を読んだから少しは分かっている。彼にとって、家から逃げたあとの「目的」だった。家から独立できたのだから、今は関係ないといえばそうなのだろう。
しかし、オクルスを見ていれば分かる。なんだかんだ仕事を楽しんでいたことも、魔法が好きだったことも。
だから、オクルスには辞めないでほしい。しかし、その原因となったのはヴァランの存在。だから、あまり懇願することもできない。ヴァランは黙り込んだ。
オクルスがエストレージャのほうを見て、不思議そうに聞いた。
「なんで王子様は反対するの?」
金の瞳を下に向けたエストレージャが、聞こえるぎりぎりの声で呟いた。
「……大魔法使いという地位は、お前が最初に自分からほしがったものだろう?」
「あはは。君は優しいね。だけど、そこまでないと困るものでもないけれど」
オクルスはエストレージャの発言を「優しい」で片付けたが。本当に、それだけ?
ヴァランの中で、渦巻いていた感覚が、だんだん輪郭を持ち始めた。
エストレージャ・スペランザ。この男がオクルスに向ける目は。言動は。
本当に、友人に向けるだけのものか? この男は、ヴァランと似たような気持ちを持っているのではないか?
それと同時に、無力感が湧き上がる。
エストレージャに勝てる何かを、ヴァランは持ちうるのだろうか。答えは否。絶望的なほどに、エストレージャは人間としての魅力がある。
ヴァランがエストレージャから目を離せないでいる間にも、オクルスは自分の中で決意は固まってきているらしい。ゆったりとした声で彼は言う。
「ヴァランが卒業するくらいまでは続けようかな」
「ヴァランが卒業したら引退するのか?」
「うん。隠居するよ」
隠居という言葉を使うような年齢ではないと思うのだが。ヴァランはオクルスへ視線を戻し、口を開いた。
「魔法が使えるようになっても、引退するんですか?」
「うん、まあ。本当に、もういいかなって思っているから」
彼が言う通り、魔法が使えなくなったことだけが理由で引退を決めたのではなさそうだ。しかし、きっかけを与えてしまった。
俯いたヴァランの頭を優しく撫でられた。ヴァランが視線を上げると、オクルスが微笑んでいた。
「ヴァランに出会えて、一時的にでも後見になれたんだから、満足だよ。私の人生が、無駄ではなかったと思える気がして」
「……」
オクルスに、何かを言いたかった。それでも、何を言えば良いか分からなかった。口ごもるヴァランをオクルスは不思議そうに見つめていた。そこでオクルスが思い出した、というように顔を少し曇らせた。
「ヴァラン。さっきは怒らせてごめんね。配慮が足りなかった」
「いえ……」
先ほどの感情はシレノルと話したことでとっくに薄まっている。そんなことより、この人がどこかに行ってしまうのではと怖かった。
ヴァランは口を開いたが、すぐに閉じた。この人への言葉を持ち合わせていなかった。




