83、知らない表情
オクルスはぼんやりと窓の外を見ている。今、この部屋には誰もいない。エストレージャはたまに来るが、基本的には何か忙しそうにしている。ヴァランはこの部屋にいることも多いが、今は自室にいる。
「夢、なのかな。現実味がない」
今も自分が生きているということが、どこか虚構のように感じる。これは本当に現実の話なのか、とすら感じてしまう。
次に寝て、目が覚めたら。全ては泡のように消えているのかもしれない。
こんこんと窓を叩く音がした。はっとしたオクルスが、そちらを見ると焦げ茶色の髪を持つ男が、箒の上に座りながら、こちらを見ていた。
オクルスが窓を開くと、彼はするりと部屋に入ってきた。
「レーデンボーク殿下。こんにちは」
「オクルス……」
何かを言いたげに口を開いたが、レーデンボークはそれ以上何も言ってこない。オクルスはちょうどいいところにやってきたレーデンボークへ自分の要件を済ませることにした。
「ちょっと、頬を引っ張ってもらえますか?」
「……は?」
「いや、今だに現実感がなくて」
「……」
無言になったレーデンボークに、ばしっと頭を叩かれた。そんなに強くはないが、レーデンボークの手が触れた感覚はしっかりとある。とりあえず、現実だと信じてよさそうだ。
「ありがとうございます。あ、それから、助けていただいたと伺いました。それに関しましても感謝申し上げます」
「……ああ」
エストレージャに連れてこられたレーデンボークが、オクルスに治癒魔法をかけてくれたと聞いてきたから、礼を伝える。彼はオクルスを助けることなんて不本意だったから、さぞ不満げだろう。
そう思ったのに、レーデンボークの表情は違う気がする。落ち着きなく視線を彷徨わせ、オクルスのことを見る目は心配そうだ。
「以前、言っていたのは、これを想定していたのか?」
「え?」
「あの子ども。前に、師匠から予知が出ただろう。それをお前が覆すための策か?」
ラカディエラが、「ヴァランがこの国を滅ぼす恐れがある」と予知していた。そのときにオクルスは、手を打っているとだけ伝えていたはずだった。そのあと、レーデンボークもラカディエラもその話に触れてくることはなかった。
それなのに、レーデンボークが記憶に留めていたとは。
「……覚えていらしたんですね。一部は、そうでしたが。想定とだいぶ違っています」
「忘れるわけないだろう」
その返答に意外に思う。レーデンボークは高慢に見える態度を取りながらも、なんだかんだオクルスのことを意識に置いていたようだ。
「それにしても、レーデンボーク殿下が助けてくださるとは思いませんでした」
「……」
何の気なしにオクルスが言うと、レーデンボークは黙り込む。エストレージャよりも濃い金の瞳で見つめられ、オクルスは思わずたじろいだ。
「なんですか?」
「……レーデンで良い」
いきなり呼び方に言及され、オクルスは首を傾げた。気づけば10年以上の付き合いとなっている彼から急に愛称で呼ぶように言われ、オクルスは戸惑うばかりだ。
「そんな失礼なことは……」
「助けてやっただろう?」
やんわりと断ろうとしたのに、それを言われるとオクルスの立場は弱い。実際、レーデンボークがいなければ、怪我の処置は間に合わなかったはず。
「……レーデン様。それでわざわざいらっしゃったご用件は?」
「別にお前が起きたって聞いたから様子を見に来ただけだ」
「……」
いつもなら、余計な手間をかけるなと文句を言われるところだと思ったのに。真っ直ぐに心配されるのは逆に気まずい。
レーデンボークがオクルスの顔を覗き込んできた。その瞳が、想像以上に深刻であったため、オクルスは息を呑んだ。
「死ぬなよ、オクルス」
レーデンボークの低い声が、オクルスをするりと撫でる。
前までは悪態ばかりをつき、忌々しげだったレーデンボーク。彼は、いつから変わったのだろう。
「お前を助けたのは俺だ。忘れるな」
オクルスが少しの空気を呑んだ音だけが響いた。しんとした空間。レーデンボークの心は全く分からないのに、その瞳がやけに熱を帯びている気がして、オクルスは動けなくなった。
そんなオクルスを見てレーデンボークがふっと笑う。そのことにより部屋の空気が緩んだ。
「まあ、俺だけだったら絶対に無理だった。あの子どもから連絡がきても、俺は動いたか分からない。エストレージャ兄さんに引っ張られなければ、信じなかったと思うから、自分だけの手柄にする気はないが」
あっさりと言ったレーデンボークの言葉に、オクルスは眉を顰めた。ヴァランが連絡しても信じないと断言したレーデンボークの気持ちが理解できない。
「なぜヴァランから手紙だけでは信じないのですか?」
オクルスが少し不機嫌になりながら問うと、レーデンボークはきょとんとして答えた。
「だって、お前が簡単にやられるわけないだろう?」
当然と言わんばかりの信頼に、オクルスは息を呑んだ。
レーデンボークは自分のことを嫌っていると思っていた。それなのに、信頼しているという。
不機嫌そうに喧嘩売ってきていたレーデンボークは、何を考えていたのか。彼の今までの態度を初めて疑問に思った。
レーデンボークは、オクルスに期待していたのだろうか。そこまで考えて、オクルスは首を振る。そんなはずはない。レーデンボークにとって、オクルスはただの大魔法使いの1人。国のための駒くらいにしか思っていないはず。
「魔法の天才にそう言われるのは光栄ですね。ですが、私にそこまでの力はないので」
そう言ってオクルスは苦笑したが、レーデンボークの表情は真剣なままだった。彼が口を開いたとき、扉が開いた。
「レーデンボーク。ちょうど良いところに。ちょっと来い」
「なんだよ、エストレージャ兄さん」
「手伝ってほしいことがあるから」
渋々といった様子で部屋を出て行くレーデンボークとエストレージャを見送っていたオクルスは、振り返ったレーデンボークと目が合った。
「またな、オクルス」
「……えっと、はい」
口角を上げて挨拶をしてきたレーデンボークを、オクルスは呆然としながら見ていた。レーデンボークの中身が変わったのか、あるいはオクルスが気づいていなかったのか。
「人って難しいね……」




