79、完璧な人間ではなく
必死で勉強をして、何とか「日本語」という言語を理解はできるようになったとき、ヴァランは呆然としながらその手帳を見つめることしかできなかった。
「大魔法使い様……」
ここに書かれていることは、オクルスの心の叫びだった。楽しいことも、苦しいことも。全てではないだろうが、彼の心が偽らずに記されていた。
手を止める間が惜しい。頁をめくるのすらもどかしく思いながら、ヴァランはどんどん読み進めていた。
そこに書かれていたのは、衝撃的な内容だった。
「……こんな、ことが」
それはまるで物語の中の世界だった。オクルスは「前世」の記憶を保持しているという。
その世界にある小説の中で、ヴァランはこの国、ベルダー王国を滅ぼしたらしい。オクルスの死に、耐えられなくて。
現実で起こったこととは違う。オクルスは生きているし、ヴァランも世界を滅ぼしていない。今のところは。
しかし、理解はできた。オクルスがあの場で死んでいたら、ヴァランは全てを壊したいくらいの真っ黒な気持ちに覆われていただろう。
「でも、どうやって……?」
こんな無力な自分に、そんなことができるのだろうか。それはオクルスの手記にも書いていなかった。彼も知らなかったのか、あるいはわざと書かなかったのか。
「国を、滅ぼす……?」
やっぱり想像もできない。あまりにも現実味がない話で、天井を見上げた。
そんな中、1つの可能性に気づく。人の固有魔法を借りれば、可能ではないか。この国に存在する全ての人間から力を借りたとしたら、様々な魔法を重ね合わせれば、全てを壊すほどのことはできそうだ。
それは「借りる」の範疇かどうか分からない。「奪う」にも等しい気がする。
ヴァランは自身の固有魔法がどこまでできるのかを把握できていない。オクルスからは、すでにいつでも固有魔法を借りて良いと許可を得ている。学園で他の人に借りるときも、きちんと許可を得ていることが多かった。
だからこそ、固有魔法を借りるための許可を必要かどうかなど知らないのだ。
オクルスの前世で読んだという小説の記憶が正しく、ヴァランがこの国を滅ぼすとすれば、ヴァランの固有魔法は相手の許可に関係なく借りることができるのだろう。
そう考えると、ヴァランの「人の固有魔法を借りる」は相当強力な魔法だ。少し手が震えだして、ヴァランは息を吸った。
少なくともヴァランにそのような意思はない。オクルスが守ろうとしていたベルダー王国を、ヴァランが壊すわけにはいかないから。
その手記を何周も読んだ。理解ができるまで読み続け、それでも分からなかったことはテリーに聞いた。テリーは教えてくれないときもあれば、気が向いたら教えてくれた。
ヴァランは手帳を読みながら、ぽつりと呟いた。
「それにしても、大魔法使い様も……」
ヴァランにとっての神様は、全部知っている存在ではなかった。迷いながらも、葛藤して考えてきた人間だったのだ。
完璧な人間ではない。どちらかといえば寂しがり屋で、1人になるのを厭うていた人。
「……オクルス、様」
名前を呼ぶのも恐れ多い、神聖な存在だと思っていた。それでも、この人は。間違いなくヴァランに名を呼ばれることを望んでいた。ヴァランに、彼なりの愛情を持っていた。それは全部、手記から分かった。
ヴァランはオクルスの頬に手を伸ばした。僅かに身じろぎをしたオクルスだが、やはり起きる気配はない。
「オクルス様のこと、僕は何も知らなかったんですね」
オクルスには魔法の才があり、しかもエストレージャに聞いた話だと、剣も凄い腕前だったらしい。
その一方で、強い精神力を持っていたわけではない気がする。どこか脆くて、悲観的な面もある。自分を嫌いというわけではないだろうが、あまり自身のことに興味がない。
この強いけれど弱い人を、ヴァランは何も知らなかった。
手記によって知ることができたということは嬉しいが、やはり自身の無力感を突きつけられた気分で、涙が出そうになった。
ぎゅうっとオクルスの手を握りしめる。その温かい感覚に、我慢できずに目から勝手に水があふれ出す。真っ白なシーツに、ぽたぽたと涙が染みこんだ。
この人が、生きていて良かった。今から知ることができる。ヴァランは、その手に向かって口づけた。
◆
ヴァランは何日もオクルスの近くにいた。エストレージャやテリーが同じ部屋にいることもあったが、それでも今は1人だった。
ヴァランはまた、手帳に目を落とす。これを読んだことで、いくつも分からないことはあった。
「オクルス様。どうして、僕をそんなに守ろうとしてくれたんですか? どうして、そんなに大切にしてくれるんですか? どうして、自分は死んでも良いという振る舞いをしたんですか?」
なぜ、彼はヴァランのためにこんな立ち回りができたのだろうか。1人になりたくないのに、なぜヴァランに嫌われようとしたのだろうか。
「オクルス様……」
あの時。襲撃が来たときのオクルスのことを思い出す。彼は、ヴァランのことを安全な部屋へと押し込んでから、戦いに行ってしまった。
あの時に、ヴァランがオクルスの手を放さなければ。そうすれば、オクルスは1人で戦うことがなかったのだろうか。ヴァランにも、何か手伝えただろうか。
「オクルス様、僕は、守られてばかりは嫌です」
オクルスにとって、ヴァランは「守るべき存在」なのだということは手記を見てはっきりと分かった。
そんな、弱い存在であることが悔しい。オクルスの隣に立ちたいのに、後ろで隠してもらうことしかできないのだから。
「オクルス様。僕は、二度とあなたのことを放しません」
その誓いは、誰も聞いていないことだろう。それで、良い。自分の中の決意を揺らがせなければ、誰かに聞いてもらう必要もないのだから。
「そのために……」
ヴァランは、使えるものは何でも使う。
だから、自身の『父』とされる人に会わなくてはならない。




