78、王子様ではないから
数日が経っても、オクルスは目が覚めなかった。
ヴァランは、オクルスの近くの椅子でぼんやりと座っている。
現在、この城にはエストレージャもいる。目が覚めないオクルスを守ることが目的だ。彼も仕事があるだろうが、都合はつけたらしい。時折、エストレージャへ部下が訪ねてくるが、塔の敷地内には一歩も入っていない。その一方で、塔の敷地外では、護衛がいるようだ。
この国で1番安全なのは、この塔ではないか。そう思うくらいの厳重体制だ。
その事情もわかる。オクルスはこの国で3人しかいない大魔法使いの中の1人。いなくなった損失は大きいだろう。
そのような理性的な理由だけではなく、王族との個人的な親しさという感情論も働いているだろうが。
まあ、ヴァランにとって理由はどうでもいい。そんなことよりもオクルスの安全のほうが大事なのだから。
しん、と静まり返った部屋の中。エストレージャはこの部屋にいない。彼は別室で仮眠をとっているか、仕事をしているか。だからこの部屋はヴァランだけ。ヴァランはオクルスのことをじっと見つめていた。
オクルスの顔にはほとんど赤みがない。血の気が引いて青ざめており、体調が安定していないのは明白だ。オクルスの胸が僅かに上下していることから、ようやく生を認識できる。
ヴァランは、そっとオクルスに手を伸ばした。細い手首に触れる。体温はいつもより低い気がするが、最近はオクルスの手に触れていないから分からない。
「……大魔法使い様」
呼びかけても返事がない。意識がないから当たり前だが、それでもいつものオクルスを見たいと思ってしまう。
ヴァランはオクルスを見つめながら、この状況が何かに似ていると考えていた。
そうだ。まるで、童話に出てくる風景。寝ている姫を見ているかのようだ。
「キスをしたら、目が覚めるかな?」
オクルスは美しい人だから、姫と言っても差し支えないだろう。それなら、童話と同じように彼は目を覚ますかもしれない。
ヴァランは、オクルスの方に身を乗り出した。糸のように細い金の髪を手に巻き込まないように気をつけながら、ヴァランはオクルスの顔の近くに手をついた。ぎしり、とベッドが軋む。
なぜだか知らないが、ばくばくと心臓の音が急に速くなってきた。ヴァランは浅く息を吸う。ゆっくりとオクルスに顔を近づけた。
ヴァランの息がオクルスに届きそうになったとき、急にオクルスの声が聞こえた気がした。
『王子様』
はっと息を呑んだ。そうだ。オクルスが、王子様と呼んでいるのは、ヴァランではない。
エストレージャだ。
「……エストレージャ様が」
オクルスにとっての王子様。
オクルスに近づいたことも、恋心を抱いたことも罪に感じられてきた。ヴァランは慌ててオクルスから離れる。
「僕は、何を……」
オクルスにとって自分は何か。それはよく分からない。分かるのは、オクルスはヴァランを「対等」とは思っていないということ。
「……はあ」
心の中に、泥が沈んでいくような気持ちになった。ヴァランはぐしゃりと自身の銀の髪をかき上げる。
「大魔法使い様のことが、知りたい」
何を考えていたか。何をしたかったのか。彼は、どんな人生を送ってきたのか。
オクルスの、全てが知りたい。
ヴァランの中で、1つの決意が固まった。どんな手を使っても、オクルスのことを理解する。
ヴァランは、オクルスのいつも使う机の前に立った。震えそうになる手で、引き出しを開ける。鍵はかかっていなかっため、簡単に引き出せてしまった。
ヴァランは一度深く息を吸ってから、引き出しの中を見る。その1番上には1冊の手帳があった。
「……手帳?」
この表紙は見たことがある。オクルスがたまに部屋の中で何かを書いていた。その一方で、持ち運んでいるところは見たことがない。
その手帳を手にとって、ヴァランは躊躇した。人の書いたものを勝手に見ることに罪悪感がある。引き出しを許可なく開けたことも悪いことではあるが、まだ引き返せるかもしれない。
しかし、この手帳を見れば。きっと、ヴァランは引き返せない。オクルスの私物を勝手に見たという事実が残る。
「……それ、でも。僕は、大魔法使い様の考えていたことを知りたい」
ヴァランは自身の中の躊躇を踏みつけて、その手帳を開いた。
「なに、これ……」
中身は全く読めなかった。この国の言葉ではない。それどころか、この世界の言葉かも怪しい。ヴァランは学園の授業や自主学習で様々な言語を少しずつ勉強している。それでも、形が似ている言語すら思い浮かばない。
「何かの暗号かな?」
そう考えたが、疑問が生じる。オクルスは、そんなに面倒なことをやるだろうか。仮にそこまでやるとしたら、人に気づかれたら相当不味い秘密を抱えているのだろうか。
しばらくその紙を見つめていたが、ヴァランは呆然と呟いた。
「法則も、分からない」
記号なのか、文字なのかも分からない。手帳をペラペラとめくってみる。その手帳はほとんどが埋まっているため、ヴァランは途方に暮れた。
「これを、解読……?」
できるだろうか。全く自信がない。ヴァランは泣きたくなるが、それでも決意は忘れなかった。
オクルスのことを理解する。そのためには、これを読まないといけないだろう。
ヴァランはオクルスの机と椅子を借りることにした。紙を持ってきて、その手帳の解読を試みる。その文字らしきものの分類を始めた。同じような文字をまとめていく。やはり分からないが、何もせずにはいられなかった。
「ヴァラン」
「……あ」
いつの間にか、机の上にテリーがいた。慌てて手帳を隠そうとするが間に合わない。ヴァランはさーっと血の気が引く感覚がした。
テリーにオクルスの私物を勝手に見ていることを知られた。気づかれてしまっただろうか。この邪で、汚れた気持ちを。
顔を強張らせたヴァランだが、テリーは特にいつもと様子が変わらない。それが余計に怖い。テリーは、何を考えているのか。
「それが読みたいんですか?」
「……うん。テリーは、何が書いてあるか知っているの?」
オクルスの近くにいることの多いテリーなら知っているのでは。そんな期待を持って尋ねたが、テリーは首を振る。
「ボクは、言わないように命じられているので、言えません」
「そっか。そうだよね……」
オクルスが暗号のようなものを使ってまで書いているのだ。テリーに口止めをしていても不思議ではない。落胆したヴァランを、射抜くような目がこちらをとらえていた。
「なぜ、知りたいのですか? 知って、どうするんですか?」
知ってどうしたいか。テリーの質問に、ヴァランは頭を悩ませた。しばらくの沈黙のあと、口を開く。
「僕は、大魔法使い様の力になりたい」
その決意を伝えると、テリーがじいっとこちらを見てきた。ヴァランを試しているような目だ。
「では、そのためにどこまでできますか?」
「……? 死ねるかってこと? それは流石に嫌だけど、どうしてもなら、まあ」
オクルスの近くにいたい。それを達成するためには、生きないといけない。
しかし、ヴァランの死がオクルスのためになるというのなら、ヴァランは迷わず受け入れる。
「そこまで言ってないです。なんでそんなに発想が過激で……、あ、ご主人様からの悪い影響か……」
テリーが呆れたように言うが、聞き捨てならない。ヴァランはすぐに否定した。
「大魔法使い様に悪いところなんてないよ」
「……これを読んでも、そう思えるんですかねえ」
テリーの声はやはり呆れている。一体何が書かれているのか。ヴァランの中で好奇心がむくむくと膨らんできた。
希望をこめてテリーを見ると、テリーはこくりと頷いた。
「その文字の仕組みや読みは教えましょう。その代わり、ヴァランはそれを自身の力で習得してください」
「内容は教えてくれないけど、この文字の読み方は教えてくれるってこと?」
「はい」
テリーにしてみれば、オクルスから命じられていないギリギリのところだろう。もしかしたらオクルスから怒られるかもしれない。それでも、教えてくれるというのか。
「テリー。なんで教えてくれるの?」
「そろそろご主人様は思い知るべきだと思うので」
「……?」
テリーはオクルスに何を「思い知って」ほしいのだろうか。全く分からないが、テリーはそれを教えずにさっさと話を進めだした。
「ちなみに、それは複雑だと有名なので、頑張ってくださいね」
「……はい」
そこから数日間。ヴァランは寝る間も惜しんで、必死に頭に叩き込むこととなった。正直、二度とやりたくない。




