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77、自分だけ

 ヴァランは扉が開きっぱなしのオクルスの部屋の前で立ち尽くした。


 目の前に広がる赤。赤。赤。


 思考が全く動かなくなった。その目に焼き付くような鮮明な赤と、まとわりつくような血の匂いが凄まじかった。


 ヴァランは、よろよろとオクルスに近寄る。オクルスの腕に触れた。自身の手が真っ赤に染まっているのすら気にせず、ヴァランはオクルスに必死で呼びかけた。


「大魔法使い様!」


 オクルスはかろうじて生きているようだった。彼のぼんやりと開いた目はヴァランを捉えたようで彼が少し口元を緩めた。


「ねえ、ヴァラン」


 掠れているオクルスの声に、ヴァランは慌てて顔を近づけた。苦しげながらも、薄らと笑みを浮かべたオクルスが囁いた。


「……私のことは、忘れて」

「……え」

 

 その後もオクルスは何かを言おうとしていたようだったが、口から声がこぼれ落ちることはなかった。オクルスはどこか満足げに目を閉じた。


 彼の身体から一気に力が抜けたように見えた。

 

「だいまほうつかい、さま」


 ヴァランはオクルスを抱きしめた。しかし、返事はない。口から苦しげな呼吸が途切れていないことから、何とか生を認識できる。


 オクルスを、助けないと。それでも、ヴァランはただオクルスにすがりつくことしかできなかった。何をすれば良いかも分からない。


 どうすれば良い。どうすれば。どうすれば。


「ヴァラン」


 その声は、はっきりと耳に届いた。ヴァランの名を呼んだテリーの声は、落ち着いたものだった。そのおかげで、ヴァランはようやく意識を目の前に戻した。


 テリーが、ヴァランを真っ直ぐに見据えながら告げる。


「ご主人様を助けられるのは、君だけですよ」

「……ぼく、だけ」


 テリーの言葉で、荒れ狂う波のような心が少しだけ収まった。自分しか、いない。ヴァランが、やらなくては。


 一度目を閉じて深く息を吸ったヴァランは、テリーに向き直った。


「どうすれば、いい?」

「落ち着いて、言う通りにしてください」


 ◆


 ヴァランはテリーの指示通りに動いた。オクルスの魔法を借りて、エストレージャに「1」とだけ書いた紙を送りつける。エストレージャが来るまでの間に、テリーの指示でオクルスの止血を試みるが、全く効果はなさそうだ。


 そうしているうちに、エストレージャがレーデンボークの操る箒に乗ってきた。そういえばエストレージャだけで箒に乗っているところは見たことがない。ヴァランは一瞬そう考えるが、それを問いかける暇などないだろう。


 ヴァランは2人に状況を説明しようとしたが、それよりも2人の状況把握の方が速かった。舌打ちをしたレーデンボークがオクルスに触れた。


 レーデンボークがオクルスに触れていない方の手をかざすと、そこから目映い光が広がる。


 それは、光魔法の中の1つ、治癒の魔法。ヴァランが実際に見るのは初めてだ。


 レーデンボークの魔法の光が収まってから、ヴァランはオクルスを凝視した。流れる血は止まったように見える。それでもオクルスの顔色は悪い。


「……助かるかどうかは微妙なラインだな」


 レーデンボークが誰に伝えるもなく零した言葉に、ヴァランは身体を強張らせた。大魔法使いであるレーデンボークの治癒。それを以てしても、助からないかもしれない。


 紙のように真っ白な顔をヴァランはひたすら見つめていた。どれくらいの時間が経ったか分からない頃にエストレージャの声が届いた。


「何か塗ってあるかもな……」


 エストレージャの方を見る。彼は、床に伏している侵入者の近くにいた。ヴァランは基本的にオクルスしか視界に入れていなかったから存在を忘れていたが、侵入者は全て息絶えているようだった。


 エストレージャは、落ちていたナイフを見つめているようだった。ヴァランはエストレージャに向き直る。


「何かってなんですか?」


 ヴァランが聞くと、エストレージャは驚いたように顔を上げた。ヴァランが聞いているとは思わなかったのだろう。彼は気まずそうに目を伏せた。ヴァランに伝える気は全くないようだ。


「良くない物だ」


 やはり教えてはくれない。エストレージャはヴァランのことを子ども扱いしているから。ヴァランは不満に思うが、エストレージャはヴァランの頭を軽く撫でて何も教えてくれなかった。そのままナイフをハンカチに包んで、鞄の中にしまう。


 オクルスのことを軽々と持ち上げたエストレージャが、レーデンボークに向かって声をかけた。


「レーデンボーク。ついでに部屋の掃除もしてくれ」


 血だらけで、物が散乱している部屋。それを魔法で片付けろ、とエストレージャは言っている。しかし、レーデンボークは嫌そうに顔を歪めた。


「はあ? なんで俺が。面倒くさい」

「頼むから」


 不機嫌そうなレーデンボークを見たエストレージャが、静かに目を伏せた。オクルスのことを優しげな目で見ながら、ぼそりと呟いた。


「……オクルスが起きたときに部屋がこんな状態だと、気が沈むだろう」


 エストレージャの言葉に、レーデンボークは一度オクルスへと視線を戻す。ぐしゃっと自身の焦げ茶色の髪をかき上げた。


「ああ。もう。分かった」

「助かる」


 レーデンボークの返事を分かりきっていたように、エストレージャは頷いた。オクルスをベッドの方へ運ぶ彼を見ながら、ヴァランは立ち尽くした。オクルスの近くにいたいが、レーデンボークの部屋の掃除を手伝った方が良いだろうか。


 ヴァランがレーデンボークの近くで立ち尽くしていると、彼から鬱陶しげに睨まれた。


「おい。ヴァラン、だったか?」

「はい」

「邪魔だから、兄さんところ行っておけ」

「……ありがとうございます」


 口調と表情は怖いが、言っていることは優しい。掃除を1人で引き受けてくれるというのだから。部屋はレーデンボークに任せることにしたヴァランは、エストレージャの近くへと向かった。

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