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73、オクルスにさえ嫌われなければ

 帰り道のことだった。ヴァランはテリーを抱っこして、帰ろうとしていた。その道中、人混みに流されて、すれ違う男にぶつかりそうになった。すんでのところでヴァランは躱したはずだった。


 しかし、男から腕をつかまれ、ぶつかっただろう、と怒鳴られた。ヴァランはすぐに否定をしたが、凄まじい剣幕の男は、話を聞こうとしない。気がつけば周囲は男の仲間で囲まれてしまっていた。そこでようやく、適当な子どもを連れ去る口実がほしかったことを理解した。


 気がつけば馬車に押し込められ、ガタガタ揺れる馬車の中で、ヴァランはどうするべきかを必死に考えていた。テリーが奪われないように右手で抱きしめながら、オクルスに渡されたペンダントを左手で握りしめた。


 オクルスに合図を送れば良い。それは分かっている。でも、オクルスに情けないところを見せたくなかった。


 テリーが何かを言いたげに見上げている。それでも、「普通のぬいぐるみ」のふりをしているテリーは何も話さなかった。ヴァランはぎゅっとテリーを抱きしめた。


 犯罪組織の拠点のような場所に到着し、ヴァラン馬車から降ろされた。建物の中に連れられたとき、その強引な動きにヴァランは思わずよろけた。そのとき、ヴァランの服に隠れていたペンダントがふわりと露わになった。


 それを見た男の1人が、ぎょっとした顔をした。若干怯えた目をヴァランへと向けてくる。


「おい、こいつがつけてるのって……」

「いや、まさか。これが貴族だったら不味いぞ」


 男達がざわつき始めたのを見て、ヴァランはペンダントに視線を落とした。オクルスは安物のように渡してきたが、一目で驚かれるほど高価なものらしい。その後、心なしかヴァランへの対応が丁寧になった気がする。


 鉄格子があるところに入れられたが、そこからヴァランは放置され続けていた。ヴァランに構っている暇がなくなったのだろう。本当は貴族の子なんかではないが、聞かれてないから言う必要はない。


 場所の移動がなくなっただろうから、そろそろオクルスに合図を送らなくては。彼がどんな顔をするのか、気が重い。それでも、ヴァランだけでは何もできない。ヴァランは息を吸ってからペンダントをコツコツコツ、と3回叩いた。


 これでオクルスに伝わっただろう。あとはオクルスを待つことしかできない。ヴァランの風魔法では鉄格子を壊せないだろうし、ここにいる男達を倒せるとも思わない。


 ヴァランは周囲を見渡す。薄暗い部屋で、どこか埃っぽい。


 こんな場所に連れてこられてしまったが、あまり怖くはない。だって、ヴァランは知っていた。オクルスは絶対に助けてくれる。ヴァランが1人で街へ行くことをひどく心配していたオクルスは、絶対に。


 それでも。ヴァランの心に不安が広がる。テリーをぎゅうっと抱きしめた。テリーは普通のぬいぐるみのふりをしているようだが、ヴァランはできる限り声を落としてこっそり話しかけた。


「テリー」

「はい。怖いですか?」

「……大魔法使い様は、僕のこと嫌いにならないかな?」


 この場は怖くない。今のところは犯罪者はヴァランをどうするか悩んでいるようだし、その間があればオクルスがどうにかしてくれる。


 それでは何に恐れているか。それはオクルスがヴァランを面倒に思うことだ。


 オクルスから背を向けられるのが怖い。面倒ごとに巻き込まれたヴァランのことを、嫌になるのではないか。そう考えると思わずテリーを抱きしめる腕にも力がこもる。するとテリーがはっきりと言う。


「大丈夫ですよ」


 全く疑いもない言葉。なぜそう思うのかを尋ねようとしたが、それはできなかった。


 一気に建物ないが騒がしくなったのだ。そのせいで、またテリーはぬいぐるみのように動かなくなった。


 ざわめき、怒号。それらがここまで届き、急に怖くなってきた。何が起こっているのか分からない状態が、徐々にヴァランへ焦りを与える。ヴァランは部屋の隅っこで膝を抱えた。


 こつ、こつと場の喧騒には似つかない、上品な足音が聞こえた。


 おそらくオクルスだ。それが分かっても、ヴァランはオクルスの方を向けなかった。彼が呆れた顔をしていたらどうしよう。ヴァランは、テリーを抱きかかえたまま不安に思う。それ以外は、どうでも良かった。


 この世界の全員に嫌われたとしても、オクルスにさえ嫌われなければそれで良い。そう思うほどには。


「ヴァラン」


 名を呼ばれたことで、やっとそちらを向く決意ができた。恐る恐るオクルスの方を見る。


 オクルスは、驚くほど冷たい目をしていた。怖い、という感情よりも触れてはいけないような高貴な存在に見えた。尊くて、冷たい空気。仮に触れたら、こちらが凍り付いてしまうのだと思った。


 そんな冷たい目は、ヴァランを見た瞬間に甘そうな薄桃色の瞳がゆるゆると温度を持ち始めた。それはまるでお湯を上からかけられた氷がぱきりと割れるように、一瞬で変化が生じ始めた。


 いつものような穏やかな表情となったオクルスはただ、ヴァランのことを案じていた。心配そうな目をしているオクルスはヴァランの名を呼んだあとに言った。


「帰ろう」


 こちらに手を伸ばしてくれたオクルスの手を、ヴァランは頷いてから掴んだ。


 オクルスに手を引かれ、ヴァランはやっと息ができる心地がしていた。報復などは心配だったが、いつもより冷たい笑みを浮かべるオクルスが処理をするようだったから、ヴァランも一緒にいることにした。とにかくオクルスと一緒にいたかった。


 オクルスがヴァランを心配してくれていたという嬉しさ。それと同時にヴァランのことを面倒に思っていないことへの安堵。


 それを認識すると、段々と眠くなってきた。エストレージャが来て、オクルスと何かを話しているようだったが、ヴァランはほとんど聞いていなかった。ただひんやりとしたオクルスの手を握りしめる。そこから立ったまま少しうとうとしてしまったようで、気がつけばオクルスに連れられて塔へと帰ってきていた。


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