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69、いつもと何かが違う

 ヴァランが戻ってきて、オクルスに水をくれた。テリーの話の続きを聞こうと思うが、流石にヴァランの前で聞くのは良くないだろう。


「ヴァラン。少し席を外せる?」

「嫌です」

「……?」


 一瞬、何を言われたか理解ができなかった。ヴァランがオクルスの言うことを拒否することは滅多になかった。それどころか、嫌ということもほとんどなかった。ルーナディアから婚約の提案が出たときは嫌と言っていたが、他にはすぐに思い出せない。


 そんなオクルスのことを、ヴァランがじいっと見つめていた。その目がなぜか怖い。薄らとした寒気がして、オクルスは目を逸らした。このままヴァランの瞳を見続けるのは不味い。本能的にそう感じた。


 しかし、ヴァランはオクルスの目を追いかけるように合わせてきた。口元には僅かに笑みが浮かんでいる。


「オクルス様。僕に話すこと、ありませんか?」

「……ないよ」


 ヴァランの優しく、どこか見透かしているようにも聞こえる言葉に、オクルスは訝しみながら否定した。


 すると、ヴァランは困ったように小首を傾げた。


「もう、僕に嫌われる必要ないのに、ですか?」

「……は?」


 まるで時が止まったように、思考が動かなくなった。


 ヴァランは今、何を言った? しっかりと聞こえていた。しかし、理解はできない。


 オクルスは口を開いた。しかし、言葉は何も出てこなかった。そんなオクルスを見て、ヴァランが目を伏せて笑った。


「オクルス様」

「……」


 ヴァランは1冊の手帳をオクルスに見せた。


 それは、オクルスが日記やメモを書き記すために使っていた手帳だ。思考の整理に使われることが多く、内容は前世の記憶から最近感じたことまで及んでいる。


 オクルスの嘘偽りのない、生身の言葉が書かれている。恥や外聞などは一切気にしていない。その手帳を、ヴァランが持っている。


「なんで、それを。そもそも、読めるはずないのに……」


 恥と困惑から、何をいえばいいのか分からない。落ち着け、と自分に言い聞かせる。だって、ヴァランに読めるはずがないのだ。違う世界の言語で書いているのだから。


 それなのに、嫌な予感が拭えない。


 オクルスの頬にそっと触れてきたヴァランの手は冷たかった。その冷たい手とは反対に、ヴァランの表情は温かかった。


「日本語で書いたから、読めないと思っているんですか?」

「……」


 なぜそれを知っているのだろう。ヴァランも、転生者なのか。一瞬そんな考えがよぎるが、すぐに否定した。そんなはずはない。ヴァランにそんな素振りはなかった。


 混乱をしているオクルスを見て、ヴァランは頬を緩めた。


「オクルス様。僕も頑張ったんですよ」

「なに、を」


 ヴァランはいつも頑張っていると思うが、それを彼自身が「頑張った」というのは珍しい。「頑張る」の基準が高い彼は、何をしたというのか。


「日本語って難解ですね。特に漢字が難しいです」

「は? なんで、それを」


 オクルスは戸惑いながら尋ねようとした。その言葉を遮って、ヴァランがはっきりと言う。


「ここに書かれていることは、全部読んだ。そう言っているんですよ」


 その笑顔にぞくりとした。全て、読まれたのか。なぜ。


 疑問符ばかり浮かぶオクルスを見透かすように、ヴァランはオクルスを見つめながらもその笑みは絶やさない。


「ここが小説の世界で、僕が闇堕ちをする。理解できますよ。むしろ、的確ですね。僕のせいであなたが死んだとしたら、僕もそうなっていたでしょう」


 呆然としていたオクルスだったが、ヴァランがさっさと話を進めたため、慌てて止めに入る。


「待って。待って。本当に、どうやって?」


 オクルスを見たヴァランは、きょとんとした表情を浮かべた。

 

「文字なんだから、頑張れば読めますよ」

「……」


 その当然のような返事に、オクルスは呆気にとられた。


 ヴァランは頭の良い子だ。それは知っているが、それでも規則の把握も難しい文字を読み、理解できるほどなのだろうか。


 それでも、書かれていた内容を把握されているのだから、実際やってのけたのだろう。その事実をオクルスはやっと受け入れることにした。


 その事実を受け入れるのに時間がかかったオクルスとは違い、ヴァランはどうでも良いことのように、さっさと流す。


「そんなことは、どうでも良いんです。オクルス様。話をしましょう。一週間前の襲撃の後の話です」


 一週間も経ったのか。その長さに驚愕しながらも、オクルスは口を開いた。


「ちょっと、待って」


 身体は痛いが、ヴァランが大事な話をしようとしていることは分かった。オクルスは無理矢理身体を起こす。ぐるりと視界が歪む感覚がして、頭をおさえた。


「オクルス様!」

「大丈夫だから。それで、君はあの後どうしたの?」


 焦ったような声を出したヴァランが、座ったオクルスの背に手を当てた。その温もりを感じながら、オクルスはヴァランを見上げる。


 ヴァランは少し困ったようにオクルスから目線を外した。


「僕1人だと、何もできなかったと思います。目の前が真っ暗になって、何も考えられなくなりましたから」


 そう言ったヴァランは、オクルスの膝の上に乗っているテリーに視線を向けた。


「テリーが、僕に言ったんです。しっかりしろって。今、どうにかできるのは僕だけだって。そして、エストレージャ様に、手紙を書けって」

「……エストレージャに? 何を」

「『1』って書けばいいって」


 まるで最初から合図を決めていたようだ。オクルスはテリーを掴んで、自身の目と合わせながら問いかけた。


「テリー。どういうこと?」

「ヴァランが言った通りですよ」

「……きみ、エストレージャと内通していたの?」


 テリーとエストレージャが2人で喋っているところなど見たことがないが。それでも、どこかで話をしていたのだろう。


 テリーはふいと視線を逸らしながら言った。


「内通とは人聞きの悪い。相談ですよ」

「……」

「もしものとき、どう対応するか。そして、どう短時間で伝えるか。番号ごとに、エストレージャ殿下に伝えることが決まっていたんですよ」


 なるほど、と頷きかけたオクルスだったが、その数字について気づき、動きを止めた。


「え? しかも1番? 1番目の想定ってこと? そんな想定内?」

「まあ、はい」

「嘘でしょう……」


 衝撃を受けているオクルスに、ヴァランが思い出したように言った。


「あ、オクルス様。言っていませんでした。固有魔法、お借りしました。それで、エストレージャ様まで手紙を届けました」

「私の魔法を使うことは構わないけれど……」


 テリーやエストレージャにとって、この状態が1番の想定内だったことに納得がいかない。


 そんなオクルスを見ながら、ヴァランが口を開いた。


「エストレージャ様へのその合図は、どうやらレーデンボーク殿下を呼ぶという指示も含まれていたようです、レーデンボーク殿下を連れてエストレージャ様もいらっしゃいました」

「……」


 本当にテリーとエストレージャの想定内で、オクルスは動いていたのだろう。光魔法を含み、魔法ならなんでも長けているレーデンボークを呼ぶところまで決まっていたとは。


「レーデンボーク殿下が光魔法で治癒を行ってくださいました。それでもぎりぎりだ、と仰っていましたね。助かるかどうかは微妙なラインだ、と」

「……レーデンボーク殿下でさえも、か」


 自身の魔法に絶対的な自信を持つ彼がぎりぎりと言うのなら、相当不味かったのだろう。オクルスは助からないと思っていたくらいだったから、死にかけていることは自覚していたが。


 全ては、オクルスの固有魔法を使って動いたヴァランと、事前に策を講じていたテリー、エストレージャ。そして来てくれたレーデンボークのおかげだろう。


「ヴァラン、テリー。ありがとう」


 オクルスが目の前の2人に礼を言うと、ヴァランが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


「……本心ですか?」

「え?」


 オクルスはヴァランに思わず聞き返す。ヴァランは不機嫌そうに眉根を寄せている。彼のこんな表情は珍しい。オクルスが冷たくしていても、こんな顔はしていなかった。


 ヴァランはオクルスの肩を掴みかけたが、その手を触れる前に握りしめた。オクルスに触れることなく、俯いたヴァランが尋ねる。


「あなたは、本当に生きたかったのですか?」

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