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54、かみ合わない想い

 会場を出たところで、エストレージャの強張った声が届いた。


「オクルス」


 名前を呼ばれ、オクルスは立ち止まってエストレージャの方を見る。

 廊下はそこまで暗くないはずだ。それなのに、エストレージャの顔は、影のある表情に見えた。


 エストレージャが支えてくれていた手を離し、オクルスの肩を掴んだ。そして、異常がないことを確かめるように、エストレージャは上から下までオクルスのことを見つめた。


「大丈夫か? 体調は?」


 その必死そうな表情に、オクルスは目を見開いた。エストレージャは、目だけで人を射止められそうなほど、鋭い目をしている。


 あまりエストレージャからは見ない焦りを感じ取ったが、オクルスは首を傾げた。


「本当に少ししか飲んでいないから、大丈夫だよ」


 その返事に、エストレージャが数秒間黙り込んだ。パーティー会場の喧噪を聞こえるくらいの静寂のあと、低い声でエストレージャに問われた。

 

「なんでわざわざ飲んだ?」

「面倒になったから」


 アルシャインへ説明しても理解してもらえそうになかったから、面倒になった。それに尽きる。


 オクルスがそう言うと、エストレージャは呆気にとられた表情をしたあとに、深く息を吐いた。脱力したように、オクルスの肩に顔を乗せてきた。


 驚くオクルスに向かって、エストレージャが囁いた。


「……頼むから、そういう危ないことは止めてくれ」


 切実さが混じった、祈るような声。


 まるで、自分がエストレージャの唯一であると錯覚しそうになる。そんなはずはないのに。


 エストレージャがオクルスの肩に顔を乗せているせいで、彼の顔は見えない。どんな顔をしているのか。どんな目をしているのか。何も分からない。


 オクルスはエストレージャに問いかけた。

 

「なんで?」

「……は」


 エストレージャが空気の混じった小さな声を漏らす。それでも、オクルスは続けた。

 

「なんで、君がそこまで気にするの?」


 オクルスから離れたエストレージャがこちらをまじまじと見ながら尋ねてきた。


「お前、本気で言っているのか?」


 エストレージャの低い声が響く。顔を覗き込んできた彼の視線を逃れるように、オクルスは目を伏せた。


 自分は間違ったことを言っていないはずなのに。なぜ、こんなに責められている気がするのか。


「……だって。君の中で、私は大勢の中の1人に過ぎないでしょう」


 そう言った瞬間、エストレージャの顔色が変わった。

 

「それ、は……」


 そのエストレージャは、明らかにいつもと違った。まるで、隠したかったことに、気づかれそうになっているかのような焦りが滲み出ていた。オクルスは、それを黙って見つめることしかできなかった。

 

 はあ、と息を吐いたエストレージャが、オクルスに手を差し出した。


「まあ、良い。塔まで送る」

「別に良いよ」


 オクルスはいつものように箒で勝手に帰るつもりだった。しかし、エストレージャも引こうとしなかった。


「後で毒の影響が出たらどうするんだ? 馬車で送るから」


 その金の瞳に秘められた強い色にはどのような感情を含まれているのか。触れれば焦げそうに思えて、オクルスは息を呑む。なんとなく、それ以上の拒絶ができなくなった。


「……ありがとう」


 ◆◆◆


 オクルスを塔まで送ったあと、馬車の中でエストレージャは頭を抱えた。


「ああ、もう……」


 苛立ち。焦り。それらをどう扱えば良いか分からなくて、エストレージャは自分の紅色の髪をかきまぜた。その乱れを気にすることなく、窓の外に目を向ける。


 アルシャインのグラスを奪い取ったオクルスが、それを躊躇なく口にしたところが何度も脳裏に浮かぶ。


 彼の真っ白な喉が動くところは確実に見た。そのあと、ぐらりと身体が揺れたのも。そのときの冷水をぶっかけられたかのような感覚は忘れられそうもない。


 これから、何度も夢に出てきてしまいそうだ。


 ぼんやりとしていたエストレージャの脳裏で、オクルスの先ほどの声が再生された。


『……だって。君の中で、私は大勢の中の1人に過ぎないでしょう』


 オクルスのその言葉に、エストレージャは確かに焦りを覚えた。


 なぜなら、否定をしたくてもできないから。


「お前が特別だ、なんていう言葉。言えるわけがないだろう……!」


 それを言えば、彼はどんな顔をするのだろうか。「みんなの王子様」にはなれなかったエストレージャに失望するのだろうか。


 オクルスは、エストレージャにとって自分は特別ではないという。しかし、エストレージャにしてみれば、逆だ。


 オクルスの中で、エストレージャはたいした存在ではない。


 かつて、ヴァランが来るまでは、オクルスに関わる人間はエストレージャだけだったはずだ。そのはずなのに、彼はどこか寂しげな顔をしていた。エストレージャでは、オクルスの何にもなり得なかったのだ。


「結局のところ、俺はあいつにとって雑草のようなものだ」


 雑草にしかなり得なかったエストレージャだが、そうではない人間がいるのだ。それは、ヴァラン。


 彼は自分と違う。オクルスの中に光を差し込ませ、彼の中にあった雪を溶かしたはずなのだ。オクルスの表情を見て、何となく分かった。


 ヴァランはおそらく意図せずオクルスの中に変化を起こした。そんな状況に、エストレージャの中で羨ましい気持ちや寂しい気持ちがあったことは否定できない。しかしそれ以上に安堵していた。これで、オクルスは平和に過ごしていく。そう、思っていたのだ。


「俺の、思い違いだったのか?」


 オクルスは急にヴァランへ変な演技をし出した。さらには、自分が死んだらヴァランをよろしくとまで言ってきた。


 光を見つけたはずの男が、まるで闇から逃れるような行動をとっている。


 そして無邪気そうに見えながらも、聡明そうな少年を思い浮かべる。ヴァランからエストレージャに敵意はないから嫌われていないはずだ。しかし、どこか観察されているような感覚はある。孤児院で周囲の顔色を見ながら育ってきたと考えると、それも当然なのだろうが。


 エストレージャは、深く息を吐いた。考え出したらきりがない。分からないことが増えるだけだ。


 しばらくぼーっと外を眺めていると、先ほどオクルスが言っていたことを思い出した。


「……隣国について聞きたいんだったか? 本当に何を考えているんだ」


 それもまた不可解だ。この国についても興味がなさげな男が、一体隣国の何に関心を持ったのか。


 オクルスがそこまで細かい情報を欲しがるとは思えないが、念のため城まで戻ったら情報を探しておこうか。そう思いながら、エストレージャは深夜の街を眺めていた。

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