47、不愉快
オクルスは院長室から出て、周囲を見渡した。他に用事はない。ヴァランを捜し、彼の用事が終わり次第帰ることにした。
適当に歩く。今のところ、人気はない。この辺りは、あまり使っていない部屋が多いようだ。真新しい建物だとは言い難いが、それでも清潔で管理が行き届いている。子ども用の荷物が置いてあるため、しっかりと備品は行き渡っているのだろう。
オクルスがヴァランを探して歩いていると、近くの部屋から離し声が聞こえてきた。その1つがヴァランの声であることに気がつき、オクルスはその部屋の方へと近づいていった。
「……あなた、また捨てられたの?」
女の子の声がして、オクルスは動きを止めた。
また捨てた、という言葉。ヴァランが親の顔も知らないときから孤児院に置き去りにされたことは周知の話なのか。
それにしても、あまりにも配慮がなく、無神経な言葉に思うが。
オクルスがどうするかを考えている間に、ヴァランの返事も聞こえてきた。
「捨てられてないよ。先生に会いに来ただけ」
感情のこもらないその声。オクルスはしばらく様子を見ることにして、扉の近くの壁に背を預けた。
そのヴァランの返事で、会話は終わらなかったようだ。女の子の声がする。
「へえ。引き取ってくれた人と上手くやれているの?」
それを聞いてオクルスは浅く息を呑んだ。今のヴァランには答えにくい質問だろう。ヴァランの言葉を詰まらせたような声がここまで届いた。
「……それ、は」
オクルスは目を閉じた。ヴァランを困らせる原因を自分が作ったことは明白。それでも、これをやめることはできない。やはり口を出すことはできず、じっと話を聞くことにした。
「あなたは、無理よ」
「……」
女の子の冷めた声。それに対してヴァランが何かをいうのは聞こえてこなかった。そんな沈黙の中、女の子の声がまた届く。
「親からも愛されないあなたが、他人から愛されるわけがないじゃない」
「……」
部屋の中は静かだ。ヴァランの返事の前に、さっさとこの会話を終わらせてしまおう。そう思い、オクルスは壁から離れたところで、中から声がした。
「君は、僕のことが羨ましいの?」
「え?」
それはヴァランの落ち着いた声だった。その声に、縫い付けられたように足が動かなくなる。結局、続きの話を聞くことになった。
ヴァランの声は続く。
「あの時だって。僕に『親を亡くした私の気持ちなんて分からない。親がいないし、愛されたことがないから』って言ったよね。うん。分からないよ」
その声を落ち着いている、と先ほどは思ったが。本当にそうなのだろうか。ヴァランは傷ついていて、それを押し殺しているようにも思えた。
やはりもうヴァランを連れて帰ろう。そう思ったオクルスがドアに触れようとしていたところで、ヴァランの声が聞こえてきた。
「でも、あの時はともかく。今の僕にそれをわざわざ言ってくる気持ちも分からない。あの時は親を亡くして混乱していたのかと思っていたけれど、今はそれは通用しないよ。君には、明確な悪意がある」
ヴァランの口調に、嘲笑も、怒りもなかった。淡々としていて、どこか憐れみさえこめられていた。
「そうやって、人と比べて、不幸な自分に酔ったまま、これからも生きていくの? 他人を見下して、自分より下の人間がいることに安心するの?」
そのヴァランの言葉はあまりにも重々しいものだった。12歳のヴァランから出る言葉として、大人びていた。
オクルスはヴァランのことを子ども扱いをしていたけれど。思っていた以上にヴァランはしっかりしていて、強くて、大人なのだ。それを認識し、オクルスは目を見張った。
ヴァランも、少女も、どんな顔をしているのだろうか。それが気になったが、扉にガラスがあるわけでもないため、中が見えない。
「……なんで、大魔法使いが引き取ったのがあなただったの? 私でもいいじゃない」
「え?」
「あなたより、私の方がきっと可愛がられると思うわ」
その言葉にオクルスは音を立てずに息を吐いた。
「……それは、どうかな」
ふっとヴァランが笑った気配がした。その笑みの感情も分からなかった。
それはどのような意味だったのだろう。まるで、ヴァランがオクルスに可愛がられている自信があるようで。オクルスはあんなに冷たくしているのに。
そんなはずはない。それなら、どういう意味か。
オクルスはそれ以上考えるのを止めて、ようやく扉を開いた。目に入ったのは自分になじみ深い銀の髪の少年と真っ黒な髪の少女がいた。
少女の方は一瞥したのみですぐに視線を逸らし、オクルスはヴァランに向き直った。
「ヴァラン」
「大魔法使い様、帰りますか?」
「うん、君の用事が終わったのなら」
「終わりました」
ヴァランも少女とそれ以上話すつもりはなかったのだろう。すぐに少女に背を向けてこちらまでやってきた。
オクルスが廊下の方へと戻ろうとしたとき、少女から呼び止める声がした。
「オクルス様! その子より……」
ちらりと少女を見たオクルスは、彼女の声を遮って吐き捨てた。
「誰の許可を得て名前を呼んでいるの?」
「え……」
「君に許可した覚えはないのだけれど」
出身はともかく、現在のオクルスは貴族ではない。貴族の名前を許可なく呼ぶことは無礼とされている。しかし、大魔法使いの名前を呼ぶことも普通はしない。オクルスで言えば「物従の大魔法使い」というように、固有魔法の特性と大魔法使いという呼び方、そして「様」をつける人はつける。
ヴァランでさえ、いまだに名前を呼ぼうとしていないのに。ヴァランを傷つけようとして人間から名前を呼ばれていい心地はしない。むしろ苛立つ。
「不愉快だからやめて」
固まった少女を見て、オクルスは彼女を視界から追い出した。オクルスはヴァランの方を見る。じっとこちらを見るヴァランの瞳は澄んでいて美しい。
「ヴァラン。帰ろう」
オクルスは久しぶりにヴァランに手を差し出した。ヴァランの瞳は揺れている。それでも、オクルスの手に触れた。
オクルスはそれ以降、一切少女のことを見なかった。ヴァランが自身の手を握ったのを確認して、前へと歩き出した。
「物従の大魔法使いは優しいって、先生が言ってたのに……」
後ろから聞こえた声にオクルスは眉を顰めた。誰から聞いたのかは知らないが、オクルスはそこまで優しい人間だと思われているとは考えたことがなかった。
しかし、その少女にその意味を問うことはなく。オクルスは帰るという挨拶のために院長室へと向かった。
◆
帰りながら、オクルスはヴァランの名を呼んだ。
「ヴァラン」
「はい」
人の話を聞くときにじっとこちらを見てくるのは変わらない。風魔法を使いながら箒で飛んでいるはずだが、手元に視線を向けていなくても問題ないほど安定している。
そんなことを考えながら、先ほどの少女が最後に言っていたことが気になって尋ねた。
「そういえば、君も最初から私のことを知っていたよね? 誰に聞いたの?」
オクルスは無名ではないとはいえ、普通に生きていれば会うことのない人間だ。相当な悪評が孤児院までも届いているのか。それにしては「優しい」とか言っていた気がするが。
オクルスからの問いに納得したように頷いたヴァランが、すぐに教えてくれた。
「孤児院にエミリー先生という方がいるのですが、その先生が大魔法使い様を見かけたことがあるって言っていましたよ」
「……私を?」
「はい。街で困っている人を助けていたと」
街で困っていた人を助けたことはもしかしたらあるかもしれない。しかし、そんな人に見られる場所で、大仰なことをやったことはないと思う。
「エミリー先生ってどの人?」
「最初に孤児院で会ったとき、大魔法使い様とも話していたと思いますよ」
「ああ。あの先生?」
魔力暴走を起こしたヴァランと初めて会ったとき、ヴァランのところに案内してくれた人か。確かに、その人はオクルスのことを怖がっていなかったし、人目で大魔法使いだと察知していた。
その人がオクルスのことを知っていたおかげで、初対面のヴァランがオクルスを怖がらなかったというのなら、感謝しなくてはいけない。ヴァランと初めて会ったときのヴァランを思い出し、頬を緩めていると、複雑そうな顔をしたヴァランと目が合った。
「大魔法使い様」
「ん?」
「……なんでもないです」
彼は確実に何かを言おうとしたが、結局それを止めたようだ。
ヴァランがオクルスに言おうとしてのみ込んだ言葉は、どれほどあるのだろうか。想像もできない。オクルスは目を伏せた。




