43、きっと上手くいっている
自室。オクルスは水魔法でハンカチをぬらし、それを左頬にあてた。人に殴られたことはあまりないから対処は分からないが、大体は冷やしておけば良いだろう。
ハンカチが左頬に触れた瞬間、ピリッとした感覚がして、オクルスは顔を顰めた。
「いたっ……」
ルーナディアは本気で殴ったことだろう。鏡を見ると結構腫れている。それはきっと、ヴァランのことを考えた平手打ち。これは、オクルスが受けるべき痛み。
「痛い、ね」
ヴァランは、きっとこれ以上の心の痛みを味わっていたことだろう。もう、感じなくなっただろうか。ルーナディアと会って、話をして、心が楽になったところだろうか。
オクルスのことを大切に思わないでほしい。その気持ちは、要らないから。そんなことより、彼が闇堕ちをすることなく幸せに生きていけますように。
「本当に、厄介だ」
自分自身が面倒で仕方がない。
ルーナディアと会話をすることではっきりと自覚をした。オクルスはヴァランに嫌われないといけないのと同時に、自分の庇護下には置きたいと思っている。自分の手元からヴァランを手放すことも恐れているのだ。
理由は単純。自分以外に信用できる人は少なく、ヴァランを守れると断言できる人が少ないから。
エストレージャなら、ヴァランを預けることはできる。彼は間違いなく強い。しかし、オクルスが頼り切ってしまっているエストレージャに、これ以上頼みたくない。
他に警備面で信頼できるのは、学園。学園の先生は優秀で手練れが多い。大魔法使いになっている人はいなくても、それに手が届きそうな人間が多い。外からの襲撃などは起こりにくい。
やはり、学園に行くまではオクルスの近くにいてもらうのが安全なのだ。
それは「嫌われる」という決意と自分の手元から逃さないという2つの両立を成功させなくてはならない。
それはできるのか。分からない。それでも、やるしかない。
オクルスは椅子に腰を下ろした。背もたれに身を預けると、ぎしりと音がなる。そのまま天井を見上げた。
「ヴァランが私のことを、便利な金づるくらいに思ってくれたらいいんだけどね」
ふと、口から出た言葉。悪くは、ないかもしれない。それを目指せば、どうだろうか。
今でもヴァランに必要な物は渡しており、お小遣いもそれなりの額を渡しているはず。しかし、それでも「金づる」というのには足らないだろう。
オクルスはそれなりにお金を稼いでいる。大魔法使いを逃したくない国は、それなりの給金を大魔法使いに払う。また、オクルスは少しではあるが国政の一部に、魔法に関する部分で関わっているため、給金はある。
しばらくは、ヴァランの金づるになるという方向で行こう。
「はあ……」
眠くなってきた。外はまだ明るいはずなのに。エストレージャが帰ってくるまではしばらくかかるだろうし、寝てもいいだろうか。
一瞬そう思ったが、オクルスが寝ている間にルーナディアへの刺客でも来たら終わりだ。ヴァランも殺される可能性が出てきてしまう。
目を覚ますためキッチンに向かって、珈琲を淹れはじめた。この世界にも珈琲があって良かった。眠いときに重宝している。
前世でも、珈琲を飲んでいたんだったか。前世の断片的な知識を掘り起こすと、確かに飲んでいたような気がする。仕事をしていたときに、手放していなかった。それでは、自分の仕事はなんだっただろうか。
考えても、思い出せない。やはり全てを覚えているわけではないのだ。
ぼんやりとしていたらしい。気がつけば目の前で珈琲はできあがっていた。それをコップに零さないように入れながら、オクルスはため息をついた。
この、記憶。それは、信じて良いものなのだろうか。一夜にして記憶に戻ってきたあの小説の記憶。それを指針にして動いていたが、それが蜃気楼であったとしたら。
「そんなはず」
ない、とは言い切れなかった。だって、他の記憶は曖昧なのに小説の記憶は確実なんて異常。
血の気が引きそうで、軽く首を振る。今まで指針にしたもの全てが崩れ落ちそうな嫌な感覚がして。
オクルスはそれ以上考えるのをやめた。考えては、駄目だと思った。
◆
ぐっとこめかみを押さえながら手元の資料を確認した。エストレージャがこの前持ってきた追加の資料を見ながら考える。
今はこの国のために仕事をしているが、別にオクルスはこの国にこだわりはない。エストレージャと出会わなければ、世界を旅しようかとも考えていたほどだ。しかし、それも世界を見たいのではなく、「どこか、自分を知る人がいないところに行きたい」というほどの気持ち。
特に未来への望みはない。ヴァランのことがあって、初めて何かのために動き出したような気がする。
ふと窓の外を見た。こちらに向かってくる馬車が見える。エストレージャはすぐに戻ってきたようだ。そろそろルーナディアに声をかけた方がいいか。
オクルスがそう考えているところで、扉を叩く音がした。
エストレージャに気がついたルーナディアが、声をかけに来たのだろうか。オクルスは特に何も考えず、扉を開いた。
そこに立っていたのはヴァランだった。ルーナディアかと思っていたため、その身長の差に慌てて視線を下げた。
ヴァランが、青の瞳を大きく見開いた。その視線の先は、オクルスの顔だった。ルーナディアに平手打ちをされた、左頬。
ぶわりと広がる青は、まるで荒れた海のようだった。
それに気を取られているうちに、ヴァランがオクルスの腕を押さえるように触れた。
「大丈夫ですか!? 痛い、ですか?」
その蒼白になりかけた顔を見て、オクルスは息を呑んだ。まるで自分が殴られたかのように、ヴァランは悲痛そうな顔をしている。
まだ、オクルスのことを心配してくれるのか。そう考えた途端、嫌な予感がする。
もしかして、失敗している? 目の前が真っ暗になった気がした。
違う。自分は、失敗なんてしていない。ヴァランは自分のことを、嫌いになってきているはずだ。その、はず。そうならないと、いけないのに。
呼吸が浅くなってきて、息苦しい。
自分がしていることが無意味だと思えてしまうと、オクルスは全てを失った気分になりそうだ。きっとオクルスは耐えられない。
オクルスは、自身に触れたヴァランの手を振り払った。
「さわら、ないで」
「大魔法使い、様」
驚いた顔をしたヴァランが、絞り出すように声を出した。その瞳の寂しそうな色は、まるで置き去りにされた子どものようだった。
思わず手を伸ばしそうになり、それをどうにか押しとどめた。ぐっと息を吸う。
2人の間に沈黙が流れた。オクルスがヴァランから目を逸らすと、ヴァランの声が耳に入った。
「その頬は、どうしたんですか?」
ヴァランの方を見ると、彼が心配げにこちらを見ていた。僅かに水の張った青に吸い込まれそうな心地がしたため、ふいとまた目を逸らす。
「転んだだけ」
「……」
オクルスの冷め切った声に、ヴァランは何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。黙ったまま目の前から動かないヴァランに、オクルスは尋ねた。
「それで用事は?」
「……ルーナディア殿下が、お帰りになるようです」
「そう。ありがとう」
オクルスはヴァランを追い越して、ルーナディアのいるであろう方へと向かった。後ろからじっと自分を見つめる視線を感じていたが、それは気づかないふりをした。




