36、エストレージャ・スペランザ
いつから、オクルスはあんなに覚悟を決めた目をしていたのだろうか。以前までとは明らかに様子が違った彼を部屋に残し、エストレージャはオクルスの部屋から出た。
エストレージャにとって、オクルスは特別な友人である。しかし、オクルスにとっては違うだろう。
あの冗談めかした「王子様」という呼び名は、エストレージャと距離を保とうとしているのだから。
◆
エストレージャがオクルスと出会ったのは学生時代だった。オクルスと出会ったことで、エストレージャの価値がつけられた。
エストレージャは王家の中でも大して目立たない存在だった。不要とまでは言われたことはないが、所詮は数合わせのような存在。
兄のアルシャインのように真面目で優秀ではなく、姉のルーナディアのように慈悲深くて行動力があるわけではない。弟のレーデンボークのように魔法の才に溢れているわけではない。
王族としての用事があるときに、誰も手が空いていなければ対応を頼まれる。それだけの人間。
むなしかった。エストレージャは何も手にしないまま、このまま王家のために適当な国内の貴族か、国外の貴族と結婚するのだと諦めていた。
エストレージャにとっての大きな変換点は、オクルスに声をかけた瞬間だったのかもしれない。
その男は、影がありながらも美しい男だった。物静かで儚げ。ほとんどの時間を人と話しておらず、ぼんやりとしているように見えた。後で聞いた話だと入学直後は人に話しかけていたようだが、エストレージャが認識をしたタイミングではすでに周りに人はいなかった。
当時、シュティレ侯爵家の次男として生きていた、オクルス・シュティレ。後のオクルス・インフィニティ。
静かな彼に対して、周りはうるさかった。
オクルスが、子どものときに山を壊した。猫を殺して、物として従わせている。オクルスの兄が可哀想だという声まで。
そうやって、好き勝手噂されていた。
エストレージャがオクルスに話しかけたのは、魔法の授業だった。
二人でペアを作るように言われたとき、周囲の人がエストレージャから声をかけられたがっているのを知っていた。第2王子のエストレージャと親しくなりたいが、自分から声をかけるのは難しい。そのような空気を感じ取り、エストレージャは息を吐いた。
立ち上がると、エストレージャに視線が集中している。それを無視しながら、周囲から遠ざけられているオクルスに話しかけた。
「シュティレ侯爵令息」
エストレージャの声で、諦めたように俯いていたオクルスが顔を上げた。
綺麗な瞳だった。淡い桃色の瞳はふわふわした甘味を煮詰めたようだった。そんな甘そうなのに、彼が抱える闇ははっきりと感じられる物なのが異常だった。
「俺と組まないか?」
「殿下とですか?」
美しい瞳を瞬かせたオクルスだったが、ゆっくりと首を振った。
「私と組めば、殿下の価値が下がりますよ」
「お前と組んだという行動だけで、何かが変わる、と?」
オクルスはどう思っていたかは知らないが、別に元からエストレージャの価値は高くない。評価されるという舞台にさえ上がれていないのだ。
「殿下にお怪我を負わせてしまうかもしれません」
「俺を簡単に害せるのか?」
エストレージャの言葉でも、オクルスは頷かなかった。気まずそうに目を逸らして呟く。
「私の固有魔法はご存じですよね?」
「ああ。お前こそ、俺の固有魔法を知っているな?」
オクルスは物を従える固有魔法。
エストレージャは身体強化の中でも、身体の全身を同時に強化できるというのが固有魔法だ。
じっとオクルスを見つめていると、彼は諦めたのか首を縦に振った。
「分かりました。よろしくお願いします」
「ああ」
そして、エストレージャはオクルスとペアを組んで授業を受けた。
何度か授業を受けているうちに、慣れてきたオクルスはエストレージャと2人のときは敬語を使うこともなくなった。魔法の授業を受けるときは一緒にいるのが自然となっていった。
ある日、ふわふわとハンカチを宙に浮かせながら、オクルスが呟いた。
「君の固有魔法、素晴らしいよね」
「俺の固有魔法を? 本気で言っているのか? 独自性の欠片もないと蔑まれているというのに」
エストレージャが自嘲気味に言うが、オクルスはもう1つのハンカチも浮かせる同時の制御を行いながら首を振った。
「別に独自性なんてどうでもいいよ。固有魔法なんて誰がどのように使うか、でしょう? 君は悪用しないし。それに、私が間違って魔力を暴走させても、君は死なない。君は固有魔法の扱いが上手いから」
「まあ、そうだろうな」
どくり、と心臓の音がした。嬉しかった。オクルスほどの魔法の才を持つ人間に、そう言われたことが。
エストレージャではなくても、同じことを言っていただろう。しかし、言われたのがエストレージャであるという事実は変わらない。
身体強化ができ、オクルスに傷つけられない故にオクルスの近くにいることができる。それだけでも、自身の固有魔法が価値のあるものに思えた。
◆
そしてオクルスと授業以外でも話をするようになっていったが、エストレージャは不思議だった。オクルスは噂のような怖い人にも、危険な人間にも見えない。
純真で、繊細で、脆い。それなのに、自分で決めたことがあれば、それを貫こうとする意志の強さも持つ。
噂との乖離。それがあまりにも謎で、オクルスに尋ねたことがあった。
「お前の噂、どこまでが本当なんだ? 全部嘘に見えるが」
「噂?」
「山を壊した、とか。猫を殺した、とか」
エストレージャの問いに、オクルスは薄らと笑みを浮かべた。ぞくりとするほど、冷たい表情だった。
「どっちも本当だって言ったら、どうする?」
桃色の瞳が試すようにこちらを見ていた。その瞳の奥に隠れた感情は、怯え。
そうだ。この男は恐れている。オクルスはエストレージャに嫌われることを酷く心配している。
エストレージャは気がついていないふりをしながら、何でもないように言った。
「別どうもしない。ただ、もし本当だと言うのなら、山の壊し方は聞いておきたい、ぐらいの感想だな」
ぽかんとしたオクルスが、俯いた。その表情が見えなくなってしまったが、エストレージャはわざわざ覗き込むことはしなかった。
顔を上げたオクルスの瞳は、少しだけ潤んでいた。しかし、その表情は柔らかかった。
「これは例え話だけど。まだ魔力の制御ができないほどの幼い子どもを、武器も何も持たせず、魔獣が蔓延る真っ暗な山奥の小屋に閉じ込めたとしたら。その幼い子どもは、恐怖で山の1つくらい吹き飛ばせるんじゃないかな?」
「それ、は」
例え話と言ったが、それが嘘であることは簡単に分かった。それはオクルスが自分で味わったことだと言うのがはっきりと伝わり、エストレージャは言葉をなくした。
猫の方も、事情は知らないがきっとオクルスが殺したわけではなさそうだ。いや、ないと断言できる。オクルスは、生き物を殺して平然としていられる人間ではない。
「それなら、なんでそんなに噂に……」
いや。その答えはすでに持ち合わせている。オクルスの兄。カエルム・シュティレ。次期侯爵とされる男は、オクルスが邪魔だったのだろう。
魔法の才を持ち、成績も悪くないオクルスに自分の座が脅かされることを恐れている。
「……お前はそれで良いのか?」
「……誰も、私の話をまともに聞いてくれない。しかも、嘘を言われているわけではなく、あの男は事実だけを切り取って伝えている。それがどんどん広がって、大袈裟になっているだけだから、あの男に文句を言えない」
「俺に何かできることは? 何をしてほしい?」
オクルスに助けてと言われれば、噂の火元に消しにいこうかと思った。あるいは噂をしている人間を咎めようかと。使える権力は全て使って。
しかし、オクルスは諦めたように笑った。
「どうせ、誰も信じないよ。あの人の言葉を信じるから」
力なく笑うオクルスに。エストレージャはそれ以上、言うことができなかった。いや、そもそもこの話題を振ってしまったのが間違いだと気がついた。
「……悪い」
「なんで君が謝るの?」
柔らかい笑みを絶やさなかったオクルスに、エストレージャは何を言えば良いか分からなかった。
◆
ある日、オクルスがエストレージャに声をかけてきた。
「ねえ、王子様。次の授業って……」
その呼び方に引っかかりを覚えた。少なくとも最初の頃は、「殿下」と呼んでいたはずだが、いつからそんな呼び方をし始めたのか。
「おい。待て。お前、その『王子様』って何だよ」
「えー? だって君は『みんなの王子様』でしょう?」
「は?」
理解ができずに問うと、オクルスはにこやかに言った。
「誰にでも優しくて、みんなと仲の良い、理想の王子様」
「……」
オクルスから褒められ、妙な気恥ずかしさを感じたエストレージャは黙り込んだ。それに気がついているのか、オクルスが呟いた。
「君はきっと、美人な令嬢と結婚して、君に似て勇敢で優しい子どもと幸せに暮らすんだろうね」
その言葉に、妙な感覚がした。それは、エストレージャにとっての幸せだろうか。そもそも、幸せとは何だろうか。
「お前は?」
「え?」
「オクルス、お前にとっての幸せは?」
自分に返ってくるとは思わなかったのだろう。ぽかんとしたオクルスは、しばらく考えているようだった。少ししてから、緩やかに首を振った。
「今は家から出るために大魔法使いになること、それだけかな」
「そうか」
エストレージャは願いたかった。オクルスの幸せを。それでも生きることに足掻いて、必死なオクルスに、自分ができることがあるとは思えなかった。
オクルスの人生に、エストレージャは必要ないのだろう。それでも。せめて。オクルスが幸せだと笑うまでは、見届けたいと思った。
これが情なのか、恋なのか、愛なのかは分からなかった。そのどれかに当てはまるかもしれないし、当てはまらないかもしれない。そんな曖昧な感情だったが、エストレージャにとってはどんな宝石よりも綺麗に思えて、ぎゅうっと抱きしめながら過ごしていた。
それはずっと変わらない。オクルスが大魔法使いになった後も。
それにより、エストレージャは「大魔法使いを手懐けた」と勝手に思われ王宮内で評価されるようになってからも。
オクルスが街の外れの塔で暮らし始めてからも。
急にヴァランを連れてきてからも。
そして、自分が死んだらヴァランを頼むと言われてからも。
エストレージャは間違いなくオクルスに会って世界が変わった。彼の存在があったからこそ、この世に絶望することなく、生きられた。
それなのにエストレージャはオクルスという存在があって、王宮で価値を見いだされた。オクルスを利用しているようにしか見えない。なんて、裏切り行為なのだろう。何度もそう思った。しかし、誰もオクルスの所に行きたがらないのを良いことに、相変わらずその担当をしているのはエストレージャだ。
オクルス自身はきっと、裏切り行為とは言わない。言わないからこそ、エストレージャの中の罪悪感は募っていく。オクルスの頼みはできるだけ聞き入れるつもりなのに、滅多にオクルスは頼まないし、頼んできたと思ったら、これだ。いきなり自身の死を示唆するようなことを言い出す。
オクルスは一体、何を考えているのか。エストレージャには全く分からない。
深く息を吐きながら塔の出入り口に近づいたエストレージャは、とことこ歩く猫のぬいぐるみを見つけた。胴体を掴んで持ち上げる。
「エストレージャ殿下? 何か用事ですか?」
このぬいぐるみ――テリーが「何」かはあまり分かっていないが。オクルスに一番近い存在であることは分かる。
「テリー。頼みがある」
「なんですか?」
オクルスが勝手に動くのだから、エストレージャだって勝手に動くだけだ。あの男を失わないために。




