33、嫌われることにした
自室の椅子に座る。背もたれに体重をかけるとぎしりと軋む音を聞きながら、オクルスは額に手をあてた。
「はあ……」
思い出した。思い出してしまった。
「ここは小説の中の世界、か」
オクルスが前世で生きていたときに読んだことのある小説の世界。タイトルは覚えていないけれど、ストーリーは覚えている。
虐げられていた聖女がいた。しかし、その聖女は役立たずとして扱われていた。実際、彼女とてつもない浄化の力を持っていた。それこそ、厄災を浄化するくらいには。そして王子より彼女はその才を見いだされる。やがて王子と恋に落ち、厄災を解決しながら、ともに生きていくというシンデレラストーリー。
基本的な舞台は隣国だ。それでも、この国は無関係ではない。
この国は滅びるのだ。闇堕ちをしたヴァランの手によって。そうして厄災の根源となったこの国とヴァランを聖女が浄化するというエピソードがあった。
「うそ、だ」
一気に身体が寒くなった。頭が真っ白になり、視界がぶれる。
信じたくない。あの子が。あんなに良い子がこの国を滅ぼし、世界の敵になるなんて。
ばくばくと心臓がうるさい。しかしそのショックからか、やけに鮮明に小説の記憶が蘇ってきた。
ヴァランは闇堕ちをして国を壊し、厄災になったあと、後悔をしていた。
『僕がオクルス様のところに来なければ、オクルス様は死ななくてすんだのに』
そうだ。思い出した。オクルスは、ヴァランの目の前で死ぬ。そのあとにヴァランは闇堕ちをした。
作中でそれ以上の情報が語られることはなかった。当然だ。ヴァランは主人公ではない。ただの闇堕ちをし、世界を破滅に導こうとした悪役。
それでは、ヴァランに闇堕ちをさせないためには、どうしたら良いか。
◆
「本当に、どうすればいいんだろう」
オクルスは一晩中悩み続けた。
この国が滅ぶこと自体を問題視しているのではない。1人の力で滅びるような脆い国は、どちらにせよすぐに滅びるだろう。構造的に間違っているのだから。
しかし。ヴァランが後悔をしている。世界の敵となってしまう。そのことがひどく気がかりだ。
そもそも、オクルス・インフィニティはなぜ死んだのか。襲撃だろうか。それでも自分を簡単に殺せる人間なんて思い当たらない。この国の王子、レーデンボークが相手だとしても生き延びることくらいはできそうだ。
小説の本編とは無関係だから語られなかったのは仕方がないが、オクルスにとっては知りたい情報だった。まあ、いくら考えたところで分からないだろう。予想ができる出来事なら、オクルスは死んでいないだろうから。
それではヴァランはなぜ闇堕ちしたのか。
オクルスが、死んだから。
「それは、なんで?」
いつものように日記帳として使っている手帳に書き殴りながら考える。なぜオクルスが死んだというだけでヴァランは闇堕ちをしてしまったのか。
その答えは、難しいものではなかった。
「私のことを、大切に思っているから?」
少なくとも小説の中のヴァランはきっとそうだったのだろう。「闇堕ち」がなければ、嬉しく思っていたところだ。しかし、悲劇を生んでしまったのだから喜んではいられない。
そして、印象的な場面も思い出した。小説でヴァランはあっさりと聖女に浄化されるが、その直前の言葉。
『ああ。これでオクルス様に会える。いや、会えないかな。死後の世界があったとしても、あの崇高で清廉な人と同じ所に行くなんてできない』
そう言ってヴァランはこの世から消えた。
一気に背筋が冷たくなる。勝手に涙がこぼれた。オクルスは目元を左手で覆いながら呟いた。
「そんなこと、駄目だ。そんなこと、言わせてたまるか」
そんな人生、一体ヴァランには何が残ったというのか。
師匠のようなオクルスを亡くし、それに絶望した彼は何を手に入れられたというのだろう。失って、失って。何も手にできないまま、この世界から消えてしまった。
「今のヴァランは?」
オクルスのところで少しずつ成長している彼は、どうだろうか。オクルスが死んだとして、絶望するだろうか。
『大魔法使い様!』
オクルスの方を見て、明るい笑みを浮かべるヴァランが脳裏によぎる。目が合えば嬉しそうに笑い、オクルスが何かを教えると、1つも取りこぼさないように青の瞳を真っ直ぐに自分を見つめる彼は。
オクルスは深く息を吐いた。ヴァランはオクルスにそこそこ懐いている。それは、誤魔化せないほどはっきりと分かる。
もう、遅いのだろうか。あの優しくて真っ直ぐな少年は、闇堕ちをしてしまうのだろうか。
「いや、まだ間に合う。間に合わせる」
ここで諦められるほど些細な話ではない。難しくても、成し遂げたいことだ。
それでは、ヴァランの闇堕ちを止めるためには、どうしたら良いだろうか。
ヴァランに不幸の始まりがあるとしたら、それはオクルスからだ。ヴァランがオクルスを大切に思わなければ。そもそもヴァランは闇堕ちをしない。
「ヴァラン。ごめんね」
全てオクルスのせいだ。ヴァランの目の前で誰かに殺されるという弱さ。ヴァランが成長するまで見守らない中途半端な行動がヴァランを傷つけた。
「私なんかを、大切だと思う必要はないから」
そもそもの間違い。オクルスはヴァランに大切に思ってもらえるような存在ではない。それを正さない限り、ヴァランは平穏に生きられない。
自身の三つ編みを結ぶのに使っていたリボンに手をかけた。ヴァランにもらったリボン。それをするりとほどく。背に髪が広がるのを無視しながら、そのリボンを祈るように握りしめた。
「ヴァラン。私のことを、嫌って。私が死んでも、苦しまないぐらい」
オクルス・インフィニティは、嫌われることにした。ヴァランの闇堕ちを防ぐために。




