107、信頼の形
ラカディエラが帰ったあと、オクルスは暇そうにしていたテリーを捕まえて、膝の上にのせていた。正直、二度と会えなくなるのでは、と身構えていたが、テリーの言う通り、いなくなることはなかった。
オクルスがテリーを撫でていると、部屋の扉を叩く音がした。ラカディエラが帰ってから、あまり時間を開いていない。返事をすると、エストレージャが入ってきた。彼は部屋に入ってすぐ、眉を顰めた。
「……誰が来ていたのか?」
「え?」
「香水の匂い。この塔では一度も嗅いだことのない匂いだな。今日は来客があるとは聞いていないが」
いきなりの指摘に、オクルスは唖然とする。そんな動物のような嗅覚をしているのか。エストレージャは勘の良いところがあると思っていたが、そんな
「客、というか……」
彼女がオクルスの塔に来るのはついでだとすれば、通りすがっただけだろうか。客と呼んでいいかというどうでも良いことをオクルスが考えていると、エストレージャがじっと目を見てきた。
「俺には言えない人か? 女? 男?」
「え、どうしたの?」
エストレージャにしては珍しく、低い声。オクルスが驚いて目をぱちぱちとさせると、はっとした顔のエストレージャはがばつ悪そうに俯いた。
「……いや、なんでもない。俺が立ち入っていい領域じゃないな。何でもない」
「別にラカディエラ様が来ただけだよ」
オクルスがそう言うと、エストレージャは驚いたように顔を上げた。少しして余計な力を抜くように息を吐いた彼は、呻くように言う。
「それなら、勿体ぶるなよ」
「君が勝手に勘違いしただけでしょう」
「そうだな」
あっさりと認めたエストレージャを、オクルスはまじまじと見つめた。いつもの彼なら、そこで終わらず、もっと文句を言ってくるはずだ。普段と違うエストレージャに、オクルスは心配になってきた。
「大丈夫? 疲れてるの?」
「いや、別に疲れてはいない」
首を振ったエストレージャを、オクルスはじっと見つめた。その金の目には、僅かに迷いが滲んでいた。何かを言いたいのに、それを言っても良いか迷っているような。
「言いたいことがあるなら、教えてよ」
オクルスが言うと、エストレージャは驚いたように目を見開いた。そのあとで、少し目線を下げる。まだ迷っている様子のエストレージャを、オクルスはしばらく待っていた。
「オクルス。もしもの話をしていいか?」
「なに?」
やっと決意したのか、話を切り出したエストレージャだが、やはり口調にはいつもとは違い、迷いに満ちている。悩みながらも、エストレージャは続ける。
「仮に……俺とヴァランが崖から落ちそうになっていたとして、どちらかしか助けられないとしたら、お前はどうする?」
「……君が崖から落ちそうになるってどういう状況? 君がそんな状況まで追い込まれたとしたら、私にどうにかできる気がしないんだけど」
エストレージャの強さは知っている。特に剣の腕や、身体能力の高さを、学生時代から見てきた。そんなエストレージャがそこまで追い詰められた状況に陥った場合、オクルスに何ができるというのか。
エストレージャが呆れたような表情をしながら言う。
「仮にだと言っているだろう。例え話に過ぎない。それで、どうする?」
「ヴァランを助けるよ」
即座に言い切ったオクルスを見て、エストレージャは僅かに目を細めた。彼が乾いた笑みを零す。
「はは。即答だな」
「それはそうでしょう?」
オクルスにとって、悩むような問いではない。答えは決まっている。
「エストレージャ。君なら、1人で登ってこれるでしょう? 君のこと、信じているよ」
それが、エストレージャへの信頼の形だ。オクルスが助けないと、と思うことすらエストレージャには失礼だろう。
オクルスがはっきりと言うと、金の瞳を見開いたエストレージャが固まっていた。まるで星のような瞳が落ちてしまいそうだと思っていると、彼が口を開く。
「そうだよな。お前なら、そう言う」
ふっと表情を和らげたエストレージャは、噛みしめるようにそう言った。
その声色から、感情はよく分からない。それでも、暗いものではないから、問題なさそうだ。
「俺は、それで十分……いや、むしろそれで良い」
「本当にどうしたの?」
「なんでもない」
なぜ、エストレージャはそんなに気にするのか。疑問は消えないが、彼が何でもないと言うのなら、それを信じるだけだ。
オクルスがそう考えていると、心配そうな顔をしたエストレージャがこちらを見ていた。
「それよりも、お前の方が疲れているんじゃないか?」
「何が?」
オクルスが尋ねると、言いにくそうに目を伏せたエストレージャがボソリと言った。
「……カエルム・シュティレの件、大丈夫か?」
「ああ」
エストレージャに過去のことはは断片的にしか言ったことがないと思うが、頭の回る彼なら察していただろう。苦笑したオクルスに、エストレージャがやはり気遣うように言う。
「……背中なら、貸すぞ」
「大丈夫。ありがとう」
オクルスにしてみれば、血縁関係のある兄に殺されかけることはそこまでショックなことではない。しかし、兄弟仲はそこそこ良さそうなエストレージャには深刻に見えるのだろう。
大丈夫だと言っても、暗い表情のエストレージャに、オクルスは提案をした。
「別のお願いがあるんだけど、いい?」
「なんだ?」
一度、深呼吸をしたオクルスは、ゆっくりと言った。
「あの男と面会がしたいんだ」
カエルム・シュティレ。彼はオクルスを殺そうとしたことにより、殺人未遂容疑で城にある貴族牢にいるらしい。そんなカエルムと会うことができるのか、オクルスは知らない。
少しだけ速くなった心臓の音がエストレージャには聞こえていないように祈りながら言うと、エストレージャはあっさりと頷いた。
「なんだ。そんなことか。分かった。取り計らう」
「できるの?」
驚きながらもオクルスが聞くと、エストレージャは少し小首を傾げた。
「別にそんな難しいことではない」
「ありがとう」
オクルスを殺すほど憎んでいたカエルム。あの男とオクルスは決別をしたい。




