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103/115

103、愛

 夢を見ていた。それが夢であることは、すぐに気がついた。だって、目の前のふわふわした猫は、もうこの世にはいないのだから。


「テリー」


 オクルスが呼ぶと、その猫はこちらを見上げてきた。オクルスを見て、嬉しそうにニャアと鳴く。それを見て、やはり夢だと確信する。今の「テリー」は言葉を伝えるのだから。もちろん、オクルスの望む通りに。


 そこで、少し引っかかりを覚えた。本当に、そうだろうか。オクルスの望む通りに、テリーは動いているのか。


 よく分からなくなってきて、オクルスは、ゆっくりと猫を撫でた。ぬいぐるみよりもふわふわしている。


「ごめんね……」

「にゃあ」


 後ろに椅子があることに気がついた。既視感がある。それは、襲撃後に意識を失ったときにいた空間に似ている。気づけば後ろには椅子があり、目の前には真っ白な板。映画館にいるような感覚だ。


 椅子に座ったオクルスは、猫を膝の上に乗せた。ゴロゴロと鳴きながら、顔を寄せてくる猫を撫でていると、目の前で映像のような物が動き始めた。


「これは、昔の……」


 映っていたのは、昔のオクルスだった。それも、前回とは違いはっきり「自分」であることは分かる。日本に住んでいた記憶を思い出していない世界線ではない。間違いなく、自分。


 そのオクルスが、猫を拾ったところだった。懐かしい。オクルスは頬を緩めながらそれを見る。


 オクルスの人生で、初めて庇護欲がわいた瞬間だったかもしれない。それまでは、自分の生活だけで精一杯だった。


 そんな中、猫を拾ったことで、オクルスの何かは変わった。猫の世話をし、餌を与え、水を与える。そんな自分以外のことに意識を避けることは、恨みたくなるこの世界から気を逸らすのに良かった。


 嬉しそうに猫を抱きしめている幼き自分を見ながら、オクルスは懐かしいな、と記憶を思い出した。


 そのときにはすでに母は亡くなっていたため、オクルスは猫しかいなかった。一応父からは許可はもぎ取ったから、奪われることはないと信じていた。


 それなのに。オクルスはあの家で油断するべきではなかったのだ。カエルムという脅威がいることを忘れてはいけなかった。


 苦い思いがしながら映像を見ていると、ふっと画面が切り替わった。先ほどまではオクルスをカメラの真ん中に映したような映像だったが、今はオクルスの知らない光景だ。


 オクルスよりも圧倒的に視線が低い位置。猫が真ん中に映っている。


 オクルスの部屋でくつろいでいたテリーだったが、急に動き出した。窓の隙間からするりと抜け出して、庭を堂々と歩いていた。それは何回にも及んでいることようだ。


 オクルスは、膝に乗っている猫の喉元を撫でた。


「君、そんなに部屋から抜け出していたの?」


 にゃあ、と取り繕うように鳴かれたが、それで誤魔化せない。猫の頭をぐしゃぐしゃと撫でていたが、目の前の映像が気になり手を止めた。


 その映像を見ていると、所々カエルムが猫を見ていることに気がついた。どこか憎々しげに、悪意をもって見ている。


「あの人、目をつけてたんだね……」


 オクルスの目の前で猫を殺したのは、突発的な行動ではない。つもりに積もった苛立ちが、カエルムを動かした。それを防げなかった自分に苛立って、オクルスは舌打ちをした。それでも、映像は動いていく。


 すると、急ににゃあにゃあと鳴き始めた。肩を揺らしたオクルスは、落ち着かせようと慌てて猫を撫でた。


「ん? どうしたの?」


 映像を止めろ、と言いたげににゃあにゃあと鳴きだした猫を見て、オクルスは首を傾げた。なぜ、急に。先ほどまでは静かだったのに。


「どうしたの?」

「にゃあにゃあ」


 やはり鳴き続けている。不思議に思うが、オクルスに映像を止める権限も何もない。黙って見ていることにした。猫がオクルスの顔に手を近づけるが、背中を撫でて宥めた。


 映像では、猫の近くにカエルムがやってきた。猫がやはりにゃあにゃあと言っているのを聞き流しながら見ていると、そこにあったのは、ただの凄惨な光景だった。


 猫を捕まえてオクルスの前まで連れてきたカエルムは、ナイフで猫のことを殺した。そのときの記憶が鮮明に蘇ってきて、オクルスは心臓を押さえた。異様に心音が速い。


 そう。オクルスの目の前で、猫は殺された。そこまでは覚えていたが、その後の記憶があまりない。だから、これは思い出せということなのかもしれない。すでに苦しい気持ちをのみ込みながら、オクルスは映像を見守った。


 幼い頃のオクルスが猫を抱きしめながら泣いている。


 この頃のオクルスが、光魔法を使えていたら状況は変わっていたのだろうか。そんな「もしも」をたまに考える。猫に謝りながら泣いている無力な男を見ながら、オクルスは息を吐いた。


 猫が全く動かなくなったとき、オクルスは確かに祈った。オクルスのせいで死んだこの存在が側にいてくれるように強く祈った。そのとき、今まで気づいていなかった力を使うことができた。


 そうして、猫の魂をこの世に留め、それをぬいぐるみに押し込んだ。そうやってテリーをこの世に留めながらも、事件の記憶を思い出したくなかったオクルスはまるごと忘れた。


 オクルスは猫を撫でながら呟いた。


「ああ。そっか。そうだったね。あの猫と君は別物なんかじゃないし、私の意思で動いているわけでもない。君は、君だったね」


 それを覚えていると、忘れたい猫の殺された記憶まで引きずり出されてしまうから。そこまでメンタルの強くないオクルスは、忘れることで自分を守っていたのだ。


 ふと、引っかかった。それだけ、だろうか。まだ、何かを忘れている気がする。何かを。オクルスが猫を好きになったのは、いつからだろうか。


 少しずつ。前世の記憶の一部が戻ってくる。


 そうだ。前世でも、猫を飼っていた気がする。そのときの猫はどんな猫だっただろうか。気まぐれで、それでもオクルスに懐いていた存在は……。


 そうだ。テリーだ。テリーはずっとオクルスの近くにいた。


「ごめんね、テリー。忘れていて。ずっと、君は側にいてくれたんだね。前世も、今も」


 オクルスがそう言うと、猫が光り始めた。その眩しさに目を閉じる。そのうち、猫の手触りが変わった気がして、目を開く。


 そこには、先ほどまでの猫はいなかった。いつもの猫のぬいぐるみ、テリーになっていて、オクルスのことをどこか呆れたように見上げながら言った。


「何で思い出すんですか?」

「なんでって言われても……。そう導かれたから」


 この空間がその映像を見せただけであり、オクルスが何かをしたわけではない。


「思い出したら苦しむと思っていたのに」

「それは否定できないけれど。それでも、今回の件は、私があの人との確執を片付けておかなかったから起きてしまったからね、ちゃんと向き合わないと」


 オクルスがカエルムにテリーを殺されたときの出来事をできるだけ思い出さないようにしていたため、カエルムのこと自体も記憶の隅に追いやっていた。


 カエルムがいかにオクルスのことを嫌っていたか。それをきちんと認識していれば、今回の件は防げたかもしれない。


 今もレーデンボークに対処を丸投げしたし、ヴァランにも迷惑をかけているわけだ。そこで、ふと彼のことを思い当たり、オクルスは焦りを感じた。


「ヴァランが心配しているだろうから、そろそろ戻らないと」

「ご主人様、ヴァランのことが本当に大切なんですね」

「それはもちろん」


 オクルスがそう言うと、テリーがまじまじと見たまま何も言わない。オクルスはゆったりとした口調で続ける。


「あの子のために何かをすると思うことで、生きていて良いと思えたから。結局のところ、私自身のために、あの子には生きてほしかっただけだから」


 オクルスがいつからヴァランのことを大切に思っていたかは分からない。


 初めて会ったとき、迷いながらもオクルスの手を取ったときか。あるいは、オクルスの魔法を目を輝かせながら見たときか。あるいは、彼がオクルスのことを気遣ってくれたときか。


 明確なきっかけは分からないが、少しずつ積み重ねてきたヴァランとの日々は、オクルスの心を強く揺らす。


 自分の全てをヴァランに渡しても後悔しないと言い切れるほど、オクルスはヴァランのことを大事に思っている。


 オクルスのことをじっと見ていたテリーが静かな声で言う。


「それを愛と言うんじゃないですか?」

「そうかもね」


 そのテリーの意見に異論はない。間違いなく、オクルスはヴァランに愛情を抱いている。


 あっさりと頷いたオクルスに、テリーが訝しげに尋ねてきた。


「ヴァランの告白を断っておいて? しかもヴァランの気持ちを気のせいだとか言ってませんでした?」

「聞いてたの? まあ、言ったのは確かだけど。私はヴァランの気持ちを気のせいだと言っただけで、自分の気持ちを何か言ったつもりはないよ」

「……確かに?」


 ヴァランの気持ちは何度も否定したし、今でも気のせいであってほしいと祈っている。しかし、それはオクルス自身の気持ちを否定しているものではない。


「私がヴァランのことを好きでも問題はないけれど、あの子は私のことを好きになっちゃ駄目だから」

「酷い人ですね」

「知ってる」


 ヴァランに対して、酷いことを言っているのは自覚している。ヴァランを傷つけたくない気持ちはもちろんあるが、それだけで頷けるほど、楽観的ではない。


 テリーがオクルスのことを、哀れみの目で見ながら言う。


「この際だから言っておきますけれど、あなたは1人で生きられないと思いますよ」

「えー、でも、君がいてくれるでしょう?」

「ボクがいたところで、あなたは寂しがっていたじゃないですか」


 ヴァランが来る以前のことを言われ、オクルスは苦笑する。それ自体は否定できない。そんなオクルスを見て、テリーが言う。


「ヴァランに泣いて縋ればいいじゃないですか。ずっと側にいてって」

「……できないよ。あの子を不幸にしたくないからね」

「不幸に?」


 訝しむテリーに、オクルスは苦笑いをしたまま言う。


「いや、だって、私の方が年上だよ? 仮に恋人になったとしても、私が死んだらヴァランは、多分……」


 オクルスが死ねば、彼は悲しんでしまうだろう。それは避けたいが、年の差がありすぎる。その現実はどうやっても変わらない。


 そう言うと、テリーの真っ黒な目がじっとこちらを見ていた。


「あ、自覚したんですね。というか、想像以上に具体的に考えていますね?」

「それは、まあ。あの子の気持ちを拒絶だけしていたわけじゃないからね」


 ただ作業として断っているわけではない。考えた結果、断った方が良いと結論づけただけだ。ヴァランが嫌いなわけはもちろんない。


「相変わらず面倒な……、いえ、自己完結する人ですね」

「ねえ、今、面倒って言った?」

「気のせいですよ。気のせい」


 絶対に気のせいではなかった。オクルスが文句を言おうとしたところで、この空間が光り始めた。テリーがのんびりとした口調で言う。


「時間みたいですね」

「ねえ、戻ったら君がいなくなってるとかないよね?」

「別にないと思いますよ」


 そうは言われても、オクルスの中には不安が消えない。塔に戻ったときにテリーがいなければどうしよう。テリーはそんなことはないと言っているが、それでも不安に思ってしまう。


「テリー。改めて、ありがとう。それから、ごめんね」

「はいはい。ヴァランが待ってますよ」

「そうだね」


 少しずつ空間が光り始めいる。目を開けていられない眩しさになってきたため、オクルスは目を閉じた。足下がなくなる感覚がして、ゆっくりと意識が落ちていった。

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