102、奪われたくない
ガン、と乱暴に部屋のドアを開く音がした。ちらりとそちらに目だけを向けると、息を切らしたヴァランが立っている。
「オクルス様!」
一瞬だった。はっとした顔をして、状況を把握したであろうヴァランは、風の魔法を使ってカエルムを吹き飛ばしたようだ。風が頬を撫でる感覚のあとに、どん、と音がするのが聞こえた。
オクルスは呼吸は自由にできるようになり、ゴホゴホと咳き込む。
ヴァランが部屋を移動するとき、彼に言っておいたこと。それは、10分経ってもオクルスが部屋から出てこなければ、部屋に戻ってきてほしいということだ。
オクルスとしては、ルリエンの父、ノヴェリス伯爵のことを疑っていなかったため、ヴァランが安心して友人との時間を過ごせるようにするために言っておいてだけだ。
結果として、それに助けられた。
近寄ってきたヴァランが心配そうにこちらへと手を伸ばしてきたが、オクルスは動けずにいた。ヴァランと視線が交わる。ごめん、と口を動かすと、ヴァランの顔色が一気に悪くなった。
彼が少し離れた場所に目を向ける。カエルムがいる場所だろう。そちらの方向を、ヴァランが睨み付けた。彼がゆっくりとそちらに近づいていく。
「オクルス様に、何をした?」
ヴァランから、ぶわりと真っ暗な闇が広がる。その闇は、部屋の中を侵食していき、部屋が一気に暗くなった。オクルスはすっと息を呑む。
闇堕ち、という言葉が脳裏をよぎった。回避できた未来だと思っていた。塔に襲撃者が来たとき、ヴァランは闇堕ちしなかったのだから。
しかし。もしかしたら、その芽は潰し切れていなかった可能性がある。
オクルスの中で湧き上がってきたのは、焦りと、そして怒り。
闇だとしても、ヴァランを奪われるのは嫌だった。ヴァランは、オクルスのことが好きだと言ったはずなのに。それなのに。すごく腹立たしかった。
オクルスは絞り出すように声を出した。
「ヴァラン。私を、見て」
そんなに大きい声ではなかった。ヴァランに届くかどうかは分からなかった。確信なんてない。それでも、届いてほしいと祈った。
はっとした顔をしたヴァランが、オクルスの側にまで寄ってきて、手を握った。気がつけば先ほどまでは部屋を覆いそうだった闇魔法は霧散している。
「オクルス、さま」
「殺しちゃ、だめ。君がやる必要はないんだから」
「でも……」
ヴァランの青の瞳が揺れている。彼の泣きそうな目を見ながら、言い聞かせるように声を出す。
「あの人を拘束だけして、人を呼んで……、いや、呼ばなくてもきっと」
少し速めの足音がしたあとに、ドアの開く音がした。オクルスはそちらに目を向ける。息を切らしていないが、髪が乱れているため、急いで来たであろうレーデンボークが立っていた。濃いめの金の瞳が、驚いたように揺れた。
「オクルス? 何があった?」
「レーデン様」
あれほどヴァランが魔法を大量に使えば、レーデンボークほどの才能の持ち主なら、魔力を感知できるだろうから、彼が訝しんで来ると予想していた。
オクルスを見たレーデンボークが目を見開いた。
「お前、どうした?」
「すみません。しくじりました」
「首、酷い痣だぞ」
レーデンボークがオクルスの方へと近づいてきた。一瞬、ヴァランに目を向けたレーデンボークは、すぐにこちらに視線を戻した。
レーデンボークが悲痛そうにオクルスの首を見ながら言ったため、念のため伝えた。
「レーデン様、治療しないでくださいね」
「……分かってる」
しぶしぶ、といった様子でレーデンボークは頷く。王族である彼が状況を見たのだからいちおう証拠としては問題なさそうだが、念のため、証拠として保存しておいた方が良いだろう。
カエルムの方に目を向けたレーデンボークが、ぼそりと呟いた。
「カエルム・シュティレ。お前の兄か」
「……まあ、はい」
兄ということを認めるのは嫌だったが、一応頷いた。それを見たのか、レーデンボークが頷いた。
彼がカエルムの方に向かうのを見ながら、安堵の息を吐いた。ぐらりと脳が揺れた感覚がして、視界がぼやける。なんとか声を絞り出した。
「……レーデン様、あと、頼みます」
「は? おい、オクルス!」
レーデンボークの焦ったような声がする。ヴァランから握られている手の力が強まった気がする。そんな感覚を認識しながら、オクルスは意識を落とした。




