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社交界の一の華を目指すには相応しくない話だけど、私は、実は夜会やサロンが好きではない。
兄にとっての自慢の妹、そしてゆくゆくは兄を理解し支える妻に! ……と気合を入れていた時代は、それなりに頑張って出席していたが、微妙に道を外れてクラウスの奥さんの座に納まってからは、何だかどうでもよくなった。
クラウスの方は、夜会は情報収集の場、サロンは出る杭を見定める手段、と割り切っているようで、全く楽しめないにも関わらず結構な頻度で顔を出しているようだ。
お前は無理して出なくていい、と言ってくれたけど、奥さんとしては使えない私、せめて他の場面で役に立ちたい。
(見ていなさい、クラウス。このアラナ様の処世術……!)
どういう風に振る舞えば、目の前の気真面目そうな紳士が喜ぶか、はたまた敵意を向けてくる令嬢を懐柔できるか、私は妙なところで鼻の利く人間だった。
だてに他人様に好かれたい一心でネコを磨いてきたわけではない。
鏡の前で何度も練習した花のような笑顔を向ければ、どこぞの貴公子がだらしなく鼻の下を伸ばす。
人妻のくせに媚を売って云々と噛みついてくる令嬢には、あちらの紳士が貴女のことを気にしているようですが……とさり気なく教えてあげると、感謝された。
ふっ……。ちょろい。
なんか悪役っぽいな、私。まぁいいか。
おかげで周りに人がたくさん集まってきた。あれやこれやと話が弾む。
その全てににこやかに相槌を打ちながら、私は用心深く噂話の取捨選択を続けていた。
大体がどうでもいい内容だが、一つ、二つ、きらりと光る珠のような情報が含まれていることがある。後でクラウスに教えてあげれば見直してくれるかな……。
ふわ、と酒気も醒める涼しげな香が漂ってきた。
王室主催の夜会が催されているこの大庭園、そういえば、奥の方にオーリーフ、という南国産の珍しい樹木が植えられていると聞いたことがある。
花が満開だと爽やかなレモンの香、花が散って実が膨らむに従って、オレンジに似た甘い香りに変化してゆくのだという。
飛び交う艶聞に食傷気味だった私、適当に理由を付けて人の輪の中から抜け出した。
ついて来ようとする空気を読めない輩には、
「うちの主人、ああ見えて嫉妬深くて。他の殿方と二人きりでいるところなんて見られたら、決闘ものです」
と牽制すると、みな尻尾を丸めて逃げて行った。
すごいな、軍団長クラウス・アルゼン・ファルマークの名。
実際は、十歳も年下の私と本気の口喧嘩も厭わない、ちょっと子供みたいなところもある人なんだけど。容赦なく枕もぶん投げて来るし。
いや、もしかして私に合わせてくれているだけなのか。その可能性の方が高い気がしてきた。
未だ人々の語り草になっている一年前の北方蛮族を壊滅させた功績など聞かされると、実感する。
ああ、本当に、大した人物だったんだ……。
「人のことネコネコ言って。クラウスの方が化け猫じゃないの」
風が、庭園の木々の合間を吹き抜けて行った。枝葉に無数に飾り付けられたランプの炎が躍って、足元の影が揺らめいた。その中に、揺らめかない影があることに気づき、私は振り向いた。
暗がりで女を狙う不届きな男ではなく、私が普段から親しくしている子爵家の令嬢がゆっくりと近付いてきた。
「シュゼット」
「アラナ……こんな所にいていいの?」
おっとりとした令嬢の第一声は、不穏な気配に満ちていた。
「こんな所って?」
今夜、庭園はそのほとんどが解放されている。よほど変則的な歩き方をしない限り、禁足区などには踏み込まないはずだ。
小さな火を閉じ込めた硝子のランプ飾りは、幻想の世界に誘うように相変わらず空に近い場所で揺れていた。散策するにはもってこいの場所なのに、何故ここに居てはいけないのだろうか。
「クラウス様の元にすぐに戻った方がいいわ。女性と一緒だったの」
「……女性、と?」
「イザベラ様。……ニルヴァナ公爵家の。貴女も知っているでしょう?」
「ニルヴァナの」
知っている。煙るような黄金の髪、澄んだ湖水の青の瞳の、女神もかくやという美女だ。年はクラウスより一つ上の二十八歳。特筆すべきは、その若さで既に三度もの結婚と離婚死別を繰り返している点だろう。
一人目の夫は狩猟中の不幸な事故で命を落とした。二人目の夫はその最初の夫の弟で、兄弟と婚姻を結ぶなんて……と、一時期、随分と世間を騒がせていたようだ。
そして、三人目の夫は、二人目の夫を決闘で半殺しにしてイザベラ様を奪い取った。
が、この三人目の夫、決闘までして手に入れたイザベラ様にとことん嫌われ、一年も経たないうちに離縁された。
カレナ教(イグナーツの国教)の総本山の一つ、男子禁制のラングレン女神殿にイザベラ様は逃げ込んだのだ。そこで神に奉仕する誓いを立ててしまえば、修道女の仕来たりに乗っ取って現夫との婚姻関係は自動的に解消される。
その後、実家の力で還俗したイザベラ様は、何食わぬ顔で夜会やサロンにも顔を見せるようになった。
彼女とクラウスが付き合っているとの噂が耳に入るようになったのは、それから間もなくのこと。
クラウスもイザベラ様も美男美女で、二人並ぶとそれはもう素晴らしい眼福だった。
怜悧な黒の軍団長と、艶やかな金の薔薇姫。私がどんなに背伸びしても届かない、絵物語のように麗しい二人。
「で、でも、一年も前の話だし」
私が十六歳になってすぐの頃、彼らは別れた。社交界はそういう噂の温床なので、耳を塞いでも余計な話は暇を問わず飛び込んでくる。
というより、クラウスの性格を考えるに、恋人がいたらそもそも私の悪巧みには乗って来ないと思うのだ。自由な独り身だからこその小芝居である。
「貴女が気にしないというなら、無理にとは言わないけど……。イザベラ様には気を付けて。男性を狂わせることで有名な方だから。クラウス様は以前親しくされていただけに、関係を戻すことにも抵抗が無いかもしれないわ」
焼け木杭に火がつく、というやつだろうか。
でも……。火がついたとしても、文句を言えた義理ではない。私は。
むしろ、惹かれあう二人のお邪魔虫という可能性すらあるわけで。
あ、なんか、さすがの私でも落ち込みそう。一応妻なのに私の方が障害物って哀れすぎる。
自業自得か。これぞまさに。
「教えてくれてありがとう。でも、クラウスはそういう人じゃないから……」
笑顔が引き攣っていないことを祈りつつ、私は友人に礼を言った。
彼女の目には、私は、愛する旦那様の心を信じる健気な妻に見えたのだろう。一瞬、不安そうにくしゃりと顔を歪めた。
元気出してね、と、私の手を握り、励ましの言葉をかけてから、彼女は去った。
また何かあれば知らせると言ってくれたけど、正直、もういいですと断りを入れたい気分だった。知ったところで私にどうこうする権利は無いのだから、むしろ知らない方が精神衛生上はるかに良い。
「困った……。下手にクラウスを探しに行けない……」
探しに行った先で、濃厚かつ大人な濡れ場などに遭遇してしまったら目も当てられない。
そういう小説を読んだことはあるけれど、実施となればまた別だ。
実際のところ、物語でもあまりに過激なものは恥ずかしくて手を出したことがなかった。現実に目撃してしまったら、次の日からたちまち変な夢にうなされそうな気がする。
結局、夜会が終わる前に、私はシュゼットに頼んで馬車で屋敷まで送ってもらった。
クラウスを置き去りにしてしまった事実に気付いたのは、着替える気力も湧かなくて、ドレス姿のままベッドの上に寝転がって小一時間も経ってからのことだった。
(あ……。なんか逃げ帰ってきちゃったけど、もしかして凄くまずいんじゃ……)
やってしまった。
血の気が引いた。
「アラナ!」
クラウスの怒鳴り声が階下から聞こえた。
やばい。怒られるなんてもんじゃない。
頭の中が真っ白になっている私の都合などお構いなしに、クラウスは蝶番も弾き飛ばす勢いでドアを開けて、中に踏み込んできた。
あ。あ。
怖い、かも。
ベッドの端っこで震えながら身を縮めていると、
「大丈夫か? 何もされてないな? 怪我は!?」
両方の二の腕を掴まれ、ぐいと引っ張られた。前のめりになったその先には、武人らしくしっかりと筋肉の付いた広い胸がある。
抱き締められたと理解した瞬間、一気に顔に血が昇るのを感じた。
「け、けが?」
「お前が急に会場から姿を消したから! 妙な輩に暗がりにでも引っ張り込まれたかと……」
調子に乗って八方美人を散々していたせいか、そういえば、薄気味悪い色目を使ってくる連中が確かにいた。クラウスの名を出して威嚇すると、皆怯えた様子で逃げて行ったけど。
「だ、大丈夫。急に具合が悪くなっただけ」
「ならいいが。いずれにせよ一人で勝手に帰るな。こっちは何かあったかと慌てるだろうが」
「あ。うん。ごめんなさい……」
美貌の公爵令嬢との逢瀬はどうなったのだろう。
今ここに居るということは、シュゼットが心配していたような関係ではないということか。
(来てくれた……)
他の女性の残り香らしきものは感じない。
いつもの馴染んだクラウスの匂いしかしなかった。
私は、自分がそうと思っているよりは、ずっとクラウスに大事にされているのかもしれない。
今、どさくさに紛れて背中に手を回してみたら、どういう反応をされるだろう。
邪険に振り払われるだろうか。子供がなに色気づいているんだと馬鹿にされるだろうか。
それとも……。
おずおずと動かした手が、背に触れるよりも僅かに早く、クラウスに肩を掴まれた。そのままべりっと引き剥がされる。
「あれ?」
「まぁ無事で良かった。それとは別に、お前には言いたい事が山ほどある」
抱きつきそこなった手のやり場に困っていると、いいから座れとベッドの上の一点を指された。そこに言われるまま仕方なく正座すると、腹黒い笑顔とともに、
「さて……」
絞られた。それはもうこってりと。
必要以上に愛嬌を振り撒きすぎて、女癖の悪い遊び人らを無駄に刺激してしまったこと。
夜の庭園という、そこかしこに闇と孤立が潜んでいる場所で、危険極まりない一人歩きをしたこと。
同行者である夫を置き去りにして、言伝の一つも残さず先に帰ってしまったこと。
それから。
それから……。
「だからお前は馬鹿なんだ!」
「はい。さようでございます。ごめんなさい。平に平にご容赦を」
「なんか腹の立つ謝罪の仕方だな……」
「心の底から謝っています。ひれ伏します。申し訳ありませんでした、クラウス様。どうかお怒りをお沈め下さい」
「お前はよほど俺に叱られるのが好きなようだな。よしわかった。せっかくの申し出だ。大いに応えよう。泣くまで説教してやるから覚悟しておけ」
「あわわ……」
大事にされているなんて、気の迷い……もとい気のせいだった。
やっぱりクラウスはただの憎々しい天敵だ!




