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7 一年前(※クラウス)

※クラウス視点です。

 俺が総帥室に入った時、部屋の主はいなかった。

 それは執務室前の衛兵からも聞いていたので、憤慨すべきことではない。予定も確かめずいきなり訪ねた自分にこそ非がある。

 納得がいかないのは、机の上に書類が無造作に山積みされているその事実の方だった。

 手に取ってみると、案の定、来年度の軍備予算や北方砦の振り分け人員などが記された重要文書だった。取扱い要注意の宰相閣下の朱印もある。

 こめかみのあたりに軽く青筋を走らせながら、俺は文書を鍵のかかる袖机に仕舞った。

 引き出しを開ける時、ほとんど無意識に警戒してしまった。ここは俺の部屋とは違い、ビックリ箱から悪魔やら幽霊やらが飛び出してくることはないというのに。


(この静寂が羨ましい……)


 不意に、机の隅の方に積み上げられていた紙束が落ちた。

 拾い上げると、それはかなり精巧に描かれた似顔絵だった。ベルモント家の長男に似ている。……いや、他人の空似ではなく本人だった。

 また別の紙を見てみると、今度はハーマイン家の三男が、四角張った顔で精一杯に微笑んでいた。

 ……何だこれは。

 一方で、堂々と掲げられた素行調査書との表題が目に付いた。素行の内容は、主に女性関係についてだった。

 なるほど。ベルモント家の長男、二人の人妻と同時に不倫をしていたのか。……暇な奴。


「うわー! クラウス! 見るな!」


 レオニードが戻って来るなり悲鳴を上げた。

 アラナに負けず劣らず、レオニードもそそっかしい。こんなに似た者兄妹なのに血の繋がりが全く無いのだから、不思議な話だ。

「何だこれは? レオニード。お前、いつまでも嫁を貰わないと思ったら……そういう趣味でもあったのか?」

「な訳ないだろう。いいから返せ」

 レオニードは俺の手から調査書を奪い取ると、大慌てで決済箱の中に突っ込んだ。

 決済箱は、閲覧済みの書類を入れる箱である。定期的に文官が来て中身を回収することになっている。

「レオ……。お前、その似顔絵つきの怪しげな調査書類、不特定多数に見せびらかす気か。場合によっては背中から刺されかねんぞ」

「間違えたんだ……」

 今度こそ、机の引き出しの中という至極真っ当な場所に、レオニードは書類を入れた。

 軍の大将なのに、どうしてこいつはこう手間のかかる奴なのだろう……今に始まったことではないが。


「で、今のは何だ?」

「な、何でもないんだ」

「お前のことだ。きっと阿呆なことで事が露見する。例えば廊下に落とすとかな。どうせ尻拭いに走るのは俺なんだ。つべこべ言わずにさぁ話せ」

「アラナには内緒にしてくれよ……。お前はアラナと仲が良いから、お前経由でアラナに話が行きそうで怖い」

「別に仲良くはない。あいつが勝手に俺の元に押しかけて来るだけだ」

「あんな可愛い妹に慕われて、兄冥利に尽きるじゃないか。アラナは俺の邪魔はしたくないからと、さっぱりこっちには来てくれないのに」


 その分、あの小娘は俺の邪魔を十二分にしているわ!


 と叫ぼうとして、やめた。

 アラナの正体を知ったら、アラナに過分な夢を見ているこの妹馬鹿な兄は卒倒しかねない。

 俺には山猿にしか見えないあの娘が、この男にはどうやら天使か妖精に見えているらしいのだ。小さなレディ、などと本気で呼びかけているのを聞いた日には、冗談ではなく鳥肌が立った。

 アラナが小さいのは体だけだ。あんな大きく図太い肝を有した人間を、俺はかつて見たことがない。


「アラナにそろそろ縁談をと思ってな。出来るだけいい男と娶せたい」

「……は?」


 縁談? あの山猿に?

 おいおい。ついにとち狂ったか、レオニード。

 誰かの嫁になれるようなタマじゃないだろう。机の引き出しにビックリ箱を仕掛ける娘だぞ。真の愛読書は冒険小説、最近では、それが高じて俺に剣術を教えてくれと乞う始末だぞ。


「何をそんなに驚いているんだ、クラウス。アラナももう十六なんだから、当然だろう」


 レオニードの言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 十六。十六だったのか、あいつ。

 嘘だろう。十六にもなって、親族でも何でもない俺の所に入り浸っていたのか。菓子を零しながらウロウロ歩き回って、ソファの上で大の字になって寝ていたのか……。


「アラナは養女だからな。どうしても血縁よりは立場が弱くなる。だが、嫁げば押しも押されもせぬその家の女主人だ。今後のことを考えると、信頼できる男と一緒になって落ち着くのが、あいつにとっては一番良い選択だと思う」


 そのための素行調査だ、と、レオは言った。

 とりあえず、二人の人妻と同時進行で不倫をしていた欠陥男は候補から除外できたのだから、レオの妹溺愛も無駄ではなかったということだ。……にしても、いささかやり過ぎの感は拭えないが。

 まさか俺まで調査の対象になっているのではあるまいな……。それもぞっとしない話だ。

「安心してくれ。お前を調べたりはしてないよ」

 レオニードが朗らかに笑った。


「そもそもお前はアラナの嫁ぎ先の候補には入ってないし」


 カチンときた。

 カチンときてから、何故俺が不快感を覚えねばならんのだと、思い直した。

 アラナの婿候補から外れているのなら、かえって重畳。あんな猫かぶりの野生馬もどき、こっちから願い下げだ。どうせ貰うなら、もっと淑やかで裏表の無い女性の方がいい。

 いや、ある意味、あいつは少なくとも俺に対してだけは裏表はないのか。……無さすぎてげんなりするほどに。


「アラナは淑女の鑑みたいな娘だからな。社交界の評判も上々だ。私との血縁は無いが、持参金はかなり付けてやるつもりだから、申し込みが山と来ている。捌ききれなくて困っているくらいだ」


 呑気に喜んでいる友人とは対照的に、俺は、自分の口元が引き攣るのを感じていた。

「お前、まさか、アラナが莫大な持参金付きってこと、誰かに喋っていないだろうな……」

「ん? いや、夜会やら何やらで話す機会は多いぞ」

「この阿呆……」

 それは、金目当ての倫理観の欠片もない連中が、アラナに群がるということではないか。

 そんな物がなくても、いやそれどころかマイナスになったとしても、彼女自身を望むような男でなければ、結局、あの娘はまた捨てられるかもしれないと怯えて生きることになる。

 四年前、猫を被ってどこが悪いと生意気な口を叩きながらも、雨に紛れて無音で泣いていた……あの時のように。


「大丈夫。アラナなら何処へ嫁いでも上手くやるさ」


 レオが言った。こいつの言葉が、いちいちこんなに癇に障ったのは初めての経験かも知れない。


「……そうだな」


 その通りだ。あいつなら上手くやるだろう。

 見事に淑女の仮面を被って、下手をすれば、死ぬまで被り続けているだろう。


 でも。

 なぁ。


 そんなのは、幸せと言えるのか……?











 自分の執務室に戻ると、アラナがいた。

「……」

 ソファの上で眠っていた。クッションを抱き締め、薄い毛布にくるまり、幸せそうな寝息を立てて。

 クッションも毛布も、以前はこの部屋には無かったものだ。アラナが勝手に持ち込んだ。そして勝手に部屋の備品にした。

 もう慣れた。……慣れとは恐ろしいものだ。


(十六か……)


 奇妙な気分だった。

 小さな妹が、数年の歳月を飛び越えて、いきなり成長した姿で目の前に現れたかのような。

 アラナ自身は変わっていない。変わってしまったのは俺の見る目の方だろう。

 もう子供ではないのだから、当然、赤の他人の俺のところに入り浸る状況は芳しくない。衛兵に言って、今度こそ完全に締め出さなければ。きっと静かになってせいせいするはずだ。


(……いや静かすぎる)


 腹立たしい。十歳も年上のこの俺が、気が付けばすっかり小娘に振り回されている。

 どうせなら、四年前、十二歳の子供のままで時を止めていてくれれば良かったのに。そうすれば、拾った子犬を決して捨てられない慈悲深い飼い主として、これまで通りアラナに接することができた。


 眠っている無防備な猫かぶり姫に触れてみたいなどと、いかれた思いに悩まされることもなかったのだ。






 散々迷って、半年後、俺はレオニードの元に一つの提案をしに行った。

 アラナが十八になったら俺がもらう。だから、俺より眼鏡に叶う奴が現れない限り、アラナに妙な虫を寄せ付けるな、と。

 友人は手放しで喜んだ。持参金話が尾ひれはひれを付けて広まってしまい、この能天気な男とても対応に苦慮していたらしい。

 それにしても世の中の没落貴族の数の多さには驚くばかりだ。持参金つきの花嫁を狙うより、自分で働いて稼いだ方が確実だろうに。

 

「お前とアラナか。天地がひっくり返っても、それだけは起こり得ないと思っていたよ……」

「まったくだ。俺も未だに信じられん」


 正直、アラナに対する感情が何なのか、実は自分自身もよくわかっていない。

 ただ、半端な男には任せられない。渡したくない。その気持ちだけは本物だ。まして金目当てなど論外である。

 そういう意味では、レオのアラナに対する溺愛ぶりと、俺も大して変わらないのかもしれない。違うのは、レオはそれを別の男に求めたが、俺は自分がその立場になっても構わないと考えたことだろう。

 

 とはいえ。


(兄さま、か……)


 初めてアラナを屋敷に迎えた夜、彼女が呼んだのは俺ではなく血の繋がらない兄だった。

 さすがに堪えた。……わかってはいても。

 

 やはり、アラナの底の浅い悪巧みなどには便乗せず、一年の時間をかけてゆっくりと彼女の心に近付いて行くべきだったのだ。

 戦いでも、狩りでも、焦れば機を逃すということは、他の誰よりも骨身に染みて理解していたはずだったのに。

 

 まだまだ自分も青いな、と苦笑するしかない。

 急く想いを抑えきれなかった。




 ああ、そうだ。認めよう。


 俺は、俺の手の内から、この騒々しくも憎めない雛鳥が突然飛び立ってしまうことが、ただ耐えられなかっただけなんだ……。




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