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 翌朝、目が覚めるとクラウスは既にいなかった。

 昨晩のまま、枕はあちこちに吹っ飛んでいた。一番遠いのは、十歩も歩いた先の壁際にある。何だか、全く別のことを一晩かけて頑張ったと勘違いされそうなので、私は急いで枕を拾いに行った。

 シーツも乱れに乱れていたので、引っ張って直した。直しながら、ぺらい恰好を隠すための上掛けを探した。ちゃんと椅子の上に新品のローブが用意してあった。


 それに袖を通した時、見計らったような絶妙の間で、ユミナが現れた。


 昨夜、度量の大きさの片鱗を見せつけてくれた彼女だが、余計な野次馬根性は一切持たない女性のようだった。ほんわりとした笑顔のまま、私の着替えを手伝い、髪を結ってくれた。

 退出の際、シーツを持ち去ろうとしたので、私は思わず呼び止めた。

 掃除や片付けは、侍女よりももっと下の使用人の役目のはずだけど……。


「どうしても私生活が見え隠れしてしまう部分ですので……」


 ユミナは伏し目がちに答える。

 ああ、なるほど。確かに人の入れ替わりが激しい掃除婦には踏み込まれたくない領域だ。

 侍女ってのはこんな所まで気を配るものなんだ。ヴェルトナーの屋敷でも当然侍女はいたけれど、私の母親くらいの年齢で、どうやら孤児の私が気に入らなかったらしく最後まで打ち解けることは出来なかった。


 まぁ、私の猫をあれほど間近で目撃しながら見抜けなかったのだから、所詮私の敵ではないけどね!


 ……と、自らに言い聞かせて、嫌がらせをひょいひょいと避けていたあの頃が、今はただ懐かしい。


「あの、奥様。一つだけ……よろしいでしょうか」

 相変わらず慎ましやかに目線を下げながら、ユミナは呟いた。

「? なぁに?」

「お体は大丈夫でしょうか?」

 私は返答に詰まった。それはどういう意味だろう。

 大丈夫も何も、昨日は枕投げ以外何もしていないのだから、大丈夫に決まっている。しかしまさか馬鹿正直にそれを言うわけにもいかない。

「だ、大丈夫って、何が?」

「この媚薬、まさか一瓶全てお使いになるとは思わなくて……」

 ピンク色の液体が入っていた例の小瓶。

 媚薬。

 媚薬だったのか。媚薬って何だ。

「大丈夫よ」

 動揺を押し隠し、私は言った。なんて怪しい物渡すんじゃ、あんたは! と地のままに叫びそうになるのを、気力で堪えた。

 偉いぞ私。がんばれ私。


「そのおかげで、素晴らしい夜を過ごせたわ」


 猫かぶりと同じくらい、負けず嫌いの本能に促されるまま、気付けば恐るべき台詞を口走っていた。

 まぁ……とさすがのユミナも顔を赤くする。

 勝った。何だか意味もなくそう思った。思ってから、自分、本当にアホだなと痛感した。

 だからクラウスにバカバカ言われるんだ。そもそも全然勝ってないし!


「お役に立てて何よりです」


 ユミナは何事も無かったかのように微笑んだ。そして、その柔らかな笑みを絶やさぬままに退出した。……突っ込みを入れないでくれてありがとう。

 さすがクラウスが連れて来ただけのことはある。優秀な侍女だ。引き際を心得ているというか。

 それに比べて、女主人たる私の、まぁ空気の読めないこと読めないこと……。


「今日は孤児院の日か……」


 くよくよ悩んでも仕方ない。

 成り行きとはいえ誰かの奥方なんて初めてだ。たぶん一年もしないうちにアッサリ終わるだろうけど、それも人生経験と前向きに捉えることにして、清く正しく頑張ろう。


 ……清くも正しくもないな。この関係。

 お兄様ごめんなさい。






 イグナーツで孤児院を経営しているのは、その多くが教会だ。

 ミサを行う聖堂の近くに宿舎が建てられ、教会の規模に応じて五人から最大百人近くまで子供たちが共同で暮らしている。

 五代前の賢君ウルドレイが法を整備してくれたおかげで、イグナーツの弱者の保護制度は比較的整っている。孤児院出身でも教師や技術者など有識者と呼ばれる人々は多い。


 だが、それも都市部での話。田舎町はそうはいかない。


 十一年前の私がまさにそうだった。住んでいた町に教会が無かったのだ。

 親戚の親父はその辺の道端に私を放り出した。隣町まで歩けば孤児院があるからそこに行け、と。

 じゃあ行ってやるよと言い返したかは定かではないが、とにかく歩き続け、やがて力尽きた。

 ぱらぱらと降ってくる雪を眺めながら、ああ死ぬんだな、とぼんやりと考えたとき、不意に、冷たい地面から体を掬い上げられた。


「もう大丈夫だ。……辛かったな」


 記憶はそこで途切れている。次に目が覚めると、どこかの立派な宿にいた。

 変な臭いのしない清潔な服を着て、お日様の気配のするふかふかの毛布に包まれていた。

 そこで、温かいスープと苦い薬を飲ませてもらった。その苦味も、早く元気になるためだからと言われれば、初めて向けられる優しさに胸が詰まって、「目に映る景色がただ黒一色」という衝撃と恐怖を、随分と和らげてくれた。


 そう。

 目を覚ました時、私は視力を失っていたのだ。


 私が孤児院に預けられなかった理由がこれである。盲目の身で慣れない集団生活は苦しかろうと、兄はそのまま私を自分の屋敷に引き取ってくれた。

 幸い、私の失明は極度の栄養失調と環境の激変による一過性のものだったらしく、半年ほどで回復した。

 今度こそ独り立ちだな、と六歳児にはあるまじき悲壮な決意を固めた私だったが、半年も経つとどうやら兄の方も情が移っていたらしく……今に至る。


 私は、ヴェルトナーの正式な養女となった。


 私は運が良かった。いささか良すぎるほどに。

 一方で、運の良すぎる私の背後で、運の悪い誰かが泣いているのではないかと、同じような境遇の子供たちのことが気になった。

 本当は教会に寄付でも出来れば良かったのだが、なにせ私はただの養女。自分のお金など一ペス(お金の単位)も持っていない。

 じゃあ何が出来るかと自らに問いかければ、答えはおのずと見えてきた。


 直接行けばいい。行って手伝えばいい。


 どの孤児院も人手不足に喘いでいる。特に教師が足りないという。

 猫かぶりゆえに勉強を頑張った私、ええ、自慢じゃないけど学業優秀だった。ピアノも弾ける。歌も歌える。足も速い。

 おお、使えるじゃないか、自分!

 そういうわけで、私は、週に三回、講師をするために孤児院に通い続けている。今年でかれこれ三年目だ。古株ではないが、自称中堅の域には達した。

 さぁ生徒諸君、敬え!


「アラナだー! 遊んでー!」


 子供たちがどっと押し寄せてきた。既に百篇は口にした気はするのだが……あえて言い続けよう。

「先生と呼べ!」

 つい地が出てしまった。危ない危ない……。

「アラナ、お嫁さんになったって本当?」

「……」

 子供の情報網は侮れない。昨日の今日で、何故それを知っている。

「ねぇねぇ、チューした?」

 この質問には、拳で応えて良い気がする。

「バカだなー。してるに決まってんだろー」

「えー。そうなのー?」

「そーだよ。ふーふは朝も晩もチューすることになってるんだからさー」

 くぉら、このマセガキども! と私が叫び出してしまう前に、


「こら、お前たち。アラナさんを困らせてはいけませんよ」


 と、聞き慣れた穏やかな声が、群がる子供らから私を救い出してくれた。


「神父様!」


 クラウスと同じ色彩を纏ったここランカスター教会のルース神父が、そこにいた。

 漆黒の髪色に、やはりほとんど黒に近い藍色の瞳。足首まですっぽりと覆い隠す法衣は、その高潔な人格を表すかのように装飾の一つも見当たらない。

 年齢は不明だ。以前聞いてみたことがあったが、実は神父様本人も正確にはわからないとのことだった。

 見かけは三十台の半ばだが、悟りを開いた賢者のように浮世離れした雰囲気を漂わせることも少なくないので、実年齢はもっと上なのかもしれない。

 幼い頃から一緒にいた兄とクラウスを別にすれば、私は、今、この方が一番好きだ。

 夜会やサロンで出会うどんな知識人よりも、彼の方が博学で、気持ちの豊かな人だと心底思う。


「ご結婚おめでとうございます、アラナさん。絆によって結ばれた貴女と貴女のご夫君を、神が祝福で満たしてくださいますように……」


 結婚式の祝詞を、私は、本当はこの方にお願いしたかった。ヴェルトナー家にかかわる大人の事情諸々で、それは叶わなかったけど。

 だからこそ、立派な祭壇も神様の像もないこの場でも、神父様の口から紡がれる祝福の言葉が嬉しくてたまらない。

 ……それを素直に喜ぶわけにはいかない、嘘と虚飾にまみれた私だけど。


 いつか懺悔しに行こう。

 猫かぶってごめんなさい。クラウスを巻き込んでしまってごめんなさい。離婚前提の愛のない結婚をしてしまいました、ごめんなさい。

 うわー……なんて黒い歴史の数々だ。神様にも見放されそうな気がする。

 

「変わらず孤児院の方にお出で頂けるのはありがたいのですが、無理をしてはおりませんか? まずはご自分の新しい生活のことを一番にお考え下さいね」


 優しすぎます、神父様。

 ちくちくと罪悪感が……。

 

「無理なんてしていません。子供たちにピアノとヴァイオリンを教えるのは、私の生き甲斐の一つなんですから!」


 私は持参した楽器ケースを高く掲げた。中には四年前から愛用しているヴァイオリンが入っている。


 基本的な読み書きの練習はもちろん、私がほとんど趣味で教えている項目の中に、実は楽器演奏があった。

 これが、意外なことに、子供たちに大いに受けた。もっと「えー。つまんなーい」と邪険にされると思っていただけに、嬉しい誤算だった。


「みんなすごく興味を持ってくれて。楽器が足りないくらい」


 とりあえずピアノは一台あれば間に合うが、問題はヴァイオリンの方だった。可能なら子供たちに一人一台揃えてあげたいが、なにせ高価な楽器である。私のおこずかいでは全然足りない。


 そこで、私、サロンに出まくって中古の楽器の寄付を募ってみたのだ。


 それを知った兄様は、「なぜ私を頼らない!?」と嘆いたが、妹の立場をこれ見よがしに濫用するのも気が引ける。

 兄に頼るのは最終手段と、私なりの戒めがあった。とりあえず自力でやれるところまではやってみて、どうしても足りない後一歩だけ協力を仰げばいい。

 初めは全く取り合ってくれなかった上流階級の方々も、徐々に私の話に耳を傾けてくれるようになっていた。

 中には、ぽんと匿名で五十台ものヴァイオリンを贈ってくれた人物もいる。

 それを知った時には、嬉しくて、思わず泣いてしまった。もちろんお礼を言いたかったけど、添えられているのがたった一言のメッセージカードのみだったので、どうしようもなかった。


「貴女の高い志に、心より賛同いたします」


 ヴァイオリンは孤児院で生徒たちの手に渡り、素晴らしい音色を奏でている。既に私より上手な子もいるくらいだ。

 一流の演奏者が、いずれこの院から世界に羽ばたくかもしれない。


「アラナー! 神父さまー! 早くこっちこっち。遅いよー。楽譜に羽生えて逃げちゃうよー」


 子供たちが呼んでいる。

 私はだっと駆け出した。


 ヴァイオリンの弦を振り回すんじゃない。悪童め!


 背後に神父様がいるにもかかわらず、つい怒鳴ってしまった。


 おかしい。いつもの猫かぶり形態に上手く移行できない。

 これはきっと昨夜の枕投げのせいだ。

 クラウスと過ごす時間が長ければ長いほど、私の化けの皮は剥がれやすくなる。

 当然だろう。だって楽なのだ。楽すぎて……もう無理しなくてもいいかな、とすら思ってしまう。


「いかん、私! 流されるな!」

「アラナさん? 何だか様子が……」


 今日は絶不調のようだ。

 早く帰ろう……。




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